經濟學者の暴走統計學

統計學は面白い。Σや√といつた記號を見ると頭が痛くなるけれども、具體的データに基づいて人間の直觀を覆すエピソードは樂しい。ベストセラーとなつた西内啓『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)でも、たとへば最近流行のビッグデータに疑問を投げかけ、調査のサンプル數を一萬人から二萬人に増やしても統計の精度は一パーセントも改善しないと意外な指摘をしてゐる。だが他にもつと面白いところがある。著者の意圖には反するかもしれないが、經濟學者の統計の使ひ方がいかに問題をはらんでゐるかを知ることができるのだ。
統計学が最強の学問である
西内は、統計の使ひ方について統計學者と經濟學者を對比してみせる。まづ本家の統計學者といへる疫學者や生物統計家はかうである。

疫学者や生物統計家は、帰納によって一般的法則を導くと言っても、「どうせランダムサンプルなどではないし、誤差だって含まれているし、別の集団でこの回帰係数が丸々一致するかどうかはわからない」と、一般化の部分に関しては比較的謙虚である。あるいは一部の計量経済学者に言わせると「臆病」ですらある。そのため「あくまでこの調査した対象集団においては」という範囲で間違いのない因果推論だけを行な〔う〕。(262頁)

これに對し、ここ數十年で勢力を伸ばした計量經濟學者(經濟分野に統計學を利用する經濟學者)はかうらしい。

計量経済学者にとって、演繹の対象にならないようなモデルは経済学の進歩に資するものではない。だから彼らは疫学者などよりも熱心に、ありとあらゆる手段を用いて当てはまりのよいモデルを作ろうとする。(263頁)

ややわかりにくいが、ここでは歸納と演繹が對比されてゐる。歸納とは個別の事例を集めて一般的な法則を導かうといふやり方、演繹とはある事實や假定に基づいて、論理的推論により結論を導かうといふ方法である。そして統計學は歸納中心の學問、經濟學は演繹中心の學問と西内は見る。しかしここで疑問がわく。もし經濟學が演繹中心の學問なら、歸納的な統計學を取り込むことで何か矛盾が生じないだらうか。

この本ではないが、その矛盾を示すエピソードがある。リバタリアンオーストリア學派經濟學者のウォルター・ブロックがコロンビア大學の學生時代、ノーベル經濟學賞受賞者ゲーリー・ベッカーの指導を受けたときの話である。ベッカーといへばシカゴ學派を代表する一人で、そのシカゴ學派は統計學的手法を多用することで知られる。

さてブロックはあるとき、家賃規制の課題に取り組んだ。政府が家賃の上昇を制限すると賃貸住宅が改修されず劣化したり、新築が減つて供給が不足したりするとされるが、それらの法則が正しいかどうかを統計學的に檢證する作業を行つたのである。たいていの場合、法則は正しいとの結果が得られたが、ときおり、家賃規制で住宅事情が改善するといふ逆の結果になることがあつた。すると指導するベッカーはかう言つたのである。「ブロック、戻つて正しい結果が出るまでやり直したまへ」("Block, go out and do this again until you get it right!" )

これはをかしくないだらうか。もし法則が正しいと最初からわかつてゐるのなら、學生の學問的訓練にすぎないにせよ、わざわざ統計學的に檢證する意味などない。

ほとんど理解されてゐないが、經濟學の法則は自然科學と異なり、個別の事例から歸納的に導かれるものではない。人間は滿足を得るために行動する(たとへば、より多くの家賃收入を得られるならアパートを改築する)といふ明らかな事實から演繹的に導かれる。

演繹的に導かれた法則を、歸納的に「檢證」することはできない。それはまるで、「三角形の内角の和は百八十度である」といふ定理が正しいかどうかを確かめるために、印刷物に描かれた三角形を大量に集め、内角を分度器で測るやうなものだ。

つまり、經濟理論を統計學的に檢證する研究は、無意味といふことになる。そんな馬鹿なと思ふかもしれない。しかしこれは經濟學會の内部ですらささやかれてゐる公然の祕密なのである。ある計量經濟學者は、もちろん異論はあるものの、經濟理論家の側からこんな批判があると率直に認める。「ある定理が理論的に否定されるなら、それは理論上の重要な発展であり、すべての理論家は注目する。しかし、何らかの観測データに基づく計量分析の結果が、経済理論と整合的でないといっても、ほとんどの人は気にも止めない」(森棟公夫『基礎コース 計量経済学新世社、3頁)。さう、ベッカーがブロックの「檢證」結果を突き返したやうにである。

だが責められるべきは、經濟理論を檢證する側だけではない。現代では經濟理論そのものが、本來あるべき演繹法によつてではなく、統計學の手法で導かれた假説にすぎないことが大半だからだ。ひどいケースになると、統計學の最低限のルールすら無視してしまふ。

たとへば嘉悦大教授の高橋洋一は、名目GDP(國内總生産)成長率とプライマリーバランス(基礎的財政收支)對GDP比との間に相關關係があると指摘し、そこからただちに、リフレ政策によつて「名目GDP成長率を上げたら、プライマリーバランスも上がって財政が健全になる」と結論づける(『数学を知らずに経済を語るな!』PHP研究所、48頁)。しかし二つの事象に相關關係があるからといつて因果關係があるとは限らない。これは私ですら知つてゐる統計學のイロハである。

上記の引用で西内は統計學者の態度を「謙虚」と表現したが、それに引き換へ、高橋や類似の主張をする經濟學者・評論家の態度は、もはや傲慢を通り越して暴走である。最近高橋は「相関関係がないから因果関係もない」と逆の誤りを主張し、暴走はやむ氣配がない。統計學を正しく理解する經濟學者は、このやうなときこそ聲を上げ、同業者の暴走に齒止めをかけてほしい。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)