獨裁者リンカーン

スティーヴン・スピルバーグ監督の映畫『リンカーン』は、主演のダニエル・デイ=ルイスをはじめ、好きな役者が何人も出てゐるけれども、觀に行く氣がしない。映畫評で知るかぎり、「奴隸解放の父」こと第十六代アメリカ合衆國大統領エイブラハム・リンカーンをとてつもなく美化してゐるからだ。しかし映畫の宣傳文句や學校で教へこまれる虚像と異なり、リンカーンは自由のために命を賭けたりしなかつた。それどころか、獨裁者さながらに憲法を無視し、市民の自由を踏みにじつたのである。
リンカーン(上) - 大統領選 (中公文庫)
映畫は觀てゐないが、ハーヴァード大教授の歴史家、ドリス・カーンズ・グッドウィンによる原作『リンカーン』(平岡緑譯、中公文庫、全三册)はざつと讀んだ。原作なので當たり前とはいへ、この本もリンカーンをひどく美化してゐる。「序」でグッドウィンは、リンカーンを「率直であるが内面の入り組んだ、如才ないが裏表のない、感じやすいが鉄鋼の意志を持った指導者」(上卷、9頁)と齒の浮くやうな表現で稱へる。當然、本文にもリンカーンに都合の惡いことはほとんど書かれてゐない。それでもところどころに、自由を蹂躙した暴君の實像が垣間見える。

リンカーンが南北戰爭(1861-1865)を始めたのは、世間で信じられてゐる奴隸解放が目的ではなく、南部諸州の聯邦離脱を沮止するためだつたことは以前書いた米國自身が英國から離脱して誕生した國なのだから、南部の離脱を認めないのは自己否定である。戰爭の途中から大義名分に掲げた奴隸解放にしても、米國以外の國では奴隸叛亂の起こつたハイチを除き平和裏に實現されてをり、兩軍合はせて六十萬人超といふ當時としては米國史上空前の戰死者を出す必要などなかつた。これだけでも政治指導者としてリンカーンの罪は重い。

反戰派を投獄
ところがリンカーンはそれ以外にも、戰時であることを理由に、市民から言論、政治活動、人身などの自由を奪つた。リバタリアンの經濟史家トーマス・ディロレンゾによるとリンカーンの共和黨政權が支配する北部諸州では、新聞編輯者・發行人や聖職者を含む何千人もの反戰派市民が投獄された。國務長官ウィリアム・シワードは祕密警察隊を組織し、「背信行爲」の疑ひがあるといふだけで人々を逮捕した。その際、逮捕の理由は告げられず、「犯罪」が實際にあつたかどうか搜査もされず、裁判もされなかつた。グッドウィンの本ではほとんど觸れられない。

有名なのは、民主黨の反戰派議員クレメント・ヴァランディガムが逮捕され叛逆の罪で投獄された一件である。これはさすがにグッドウィンも無視できず、ヴァランディガムに「敗北主義者の煽動家」と不當なレッテルを貼つたうへではあるが、取り上げてゐる。

オハイオ州出身の下院議員ヴァランディガムはかう訴へた。「この戦争は継続されるべきなのか?…否――戦争は一日も、否、一時間たりとも長引かせてはならない」(下卷、20頁。以下すべて下卷)。政府軍の兵士らは深夜、ヴァランディガムの自宅に押し入り、逮捕した。「この事件で、前例のない即決裁判がおこなわれた結果、彼〔ヴァランディガム〕は有罪を宣告され」た(55頁)。當初は禁固刑だつたが、これをリンカーンが「南部連合の境界線内への追放刑に軽減した」(同)と、グッドウィンはさも温情あふれる措置であるかのやうに持ち上げる。政府を批判し、反戰を訴へただけでたちどころに有罪になり、追放されても大したことではないらしい。

しかも「ヴァランディガムは人身保護令状の適用を訴えたが、却下された」(同)。人身保護令状(Habeas Corpus)とは、不當に拘束されて奪はれた身柄の自由を恢復するために裁判所に請求するもので、英米では傳統的に基本的人權として認められてきた。だがリンカーンは開戰直後の1861年4月、同令状の停止を宣言する。リンカーンはヴァランディガム逮捕後、新聞への寄稿で辯明し、合衆國憲法も、内亂ないしは外國からの侵掠があつた場合には人身保護令状の停止を特例として認めてゐると「念押しした」(58頁)。しかし憲法第1條9節)で人身保護令状を停止する權限が認められてゐるのは議會であり、大統領ではない。最高裁判所長官ロジャー・トーニーはその點を意見表明で批判したが、リンカーンはこれを無視した。

非戰鬪員に攻撃
このほかにもリンカーンは、政府を批判する新聞に廢刊を強ひたり、正當な補償なしに私有財産を接收したりした。しかしなんといつても最惡なのは、南部の非戰鬪員への攻撃と財産の破壞・強奪を放置したことである。

當時すでに國際法違反だつたこれらの行爲を推し進めたのは、一部の暴走した兵士ではなく、リンカーンの右腕である北軍の將軍たちだつた。たとへばウィリアム・シャーマンは、アトランタを占據する際、晝夜を分かたず砲撃を繰り返し、家屋や建物をほとんど破壞しつくした。ディロレンゾによると、通りで女性や子供のおびただしい遺體を見た部下が思はず聲を上げると、シャーマンは冷たくかう言ひ放つた。「すばらしい眺め」だ、これで戰爭が早く終はるのだから、と。

シャーマンの行ひで最も惡名高いのは、1864年冬の「海への進軍」である。シャーマンは農作物を燒き、家畜を殺し、物資を消費し、公共施設を破壞する焦土作戰を繰り廣げた。さすがにグッドウィンも、かうした「見境いのない破壊行為」は「南部の所有地と田園地帯を荒廃させ」、「市民一般が蒙った恐ろしい傷痕の記憶は、今でも南部に取り憑いて離れていない」(343-344頁)と記す。ディロレンゾによれば、北軍兵士による強姦も多く記録されてゐる。最も被害を受けたのは、北軍が「解放」するはずの黒人女性だつた。

かうした北軍の所業は、程度の差はあれ以前から續いてをり、リンカーンが知らなかつたとは考へられない。シャーマンは「海への進軍」を始める際、「行軍途中で必要とする兵糧を自ら調達できる」(343頁)、つまり現地で食糧を奪ふと公言してもゐた。しかしリンカーンは、シャーマンが進軍で港町サヴァンナの占據に成功すると、「名誉はすべて貴官のものだ」(同)と手放しで譽め稱へた。

リンカーンに好意的なある歴史家は「もしリンカーンが独裁者だつたとしたら、情け深い独裁者であつたと認めなければならない」と書く。しかしここまで述べたリンカーンの行ひが「情け深い」とは、ブラックユーモアでしかないだらう。リンカーンは日本でも、「人民の人民による人民のための政治」といふ有名な言葉とともに、偉大な政治家といふ誤つた印象が刷り込まれてゐる。憲法と自由を蹂躙し、不必要で野蠻な戰爭を推し進めた「獨裁者」を崇めてはならない。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)