自國政府から身を守れ

先日書いたやうに、日本國憲法は國家(政府)の自衞權を否定してゐる。このやうに言ふと、「外國の脅威に無防備になつてしまふ」といふ反論が返つてくるだらう。しかしこの反論は二つの事實を見落としてゐる。一つは、憲法が否定するのは國家の自衞權であり、國民の自衞權ではないといふこと。もう一つは、國民にとつては外國政府だけでなく、自國政府も脅威になりうるといふことである。

英文対訳 日本国憲法をよむ (ブックス・プラクシス)
これらの見落としがちな事實を的確に指摘してゐるのは、米國出身で日本在住の政治學者、ダグラス・ラミスである。ラミスは二十年前、『日本国憲法をよむ』(常岡[乗本]せつ子、鶴見俊輔との共著、柏書房、1993)に寄せた論文「日本のラディカルな憲法」(加地永都子譯)で「〔憲法〕第9条は、国家に対し軍事力を確立ないし使用する権利を否定している」(169頁)と述べたうへで、二つの誤解を正してゐる。

まづ、國家の自衞權(ラミスは「国家の軍備とそれを使用する権利」と表現するが、ここでは國家の自衞權と同義とみてよい)を否定したら國民の自衞權を奪ふことになるといふ批判にかう釘を刺す(171頁)。「第9条では国民の自衛権を奪うとは一言もいっていない」。國民が自分を守る權利は「生き物としてのわれわれの肉体的本性そのものに刻み込まれて」おり、「われわれには生きる権利があるというのと同じこと」である。國民の自衞權は「不可侵」であり、憲法によつて奪ふことはできない。

國家の自衞權を奪ふことは國民の自衞權を奪ふことに等しいと思ひこむ人々は、そもそも憲法の役割を忘れてゐる。憲法は「国民の権力〔引用者注=権力でなく権利といふ表現が適切〕ではなく政府の権力を制限するために書かれている。……国民に対する命令ではなく国民による命令なのだ」。一言でいへば、立憲主義である。

多くの人々が、國家と國民を同一視してしまふのも無理はない面はある。ラミスが言ふ(173頁)やうに、「現代は国家の権力がこれまでの歴史のいかなる時代にもまして増大し、日常生活や国民全体の意識に深く浸透してきている」からである。かうした時代には「国家と国民とを別個の実在として考えにくい」。それでも政治について正しく理解するには「両者を区別すること」が必要である。兩者を混同すれば、政府やその代辯者の詭辯に丸めこまれてしまふだらう。

次にラミスは、國民にとつての脅威は外國政府だけだといふ思ひこみを覆す。それは國民の自衞權についてかう述べた部分である。「あるばあいには政府に対する自衛権を意味するだろう」(173頁。強調は原文では傍點)

これは國家と國民を區別することから導かれる自然な結論といへる。國家と國民が同じでなく、「別個の実在」だとすれば、國家が國民の權利を侵害する可能性は否定できない。いやそれどころか、國家は平時から課税(不換紙幣増發による見えない課税を含む)によつて自國民の財産を堂々と奪つてゐる。そんな國家が有事の際だけは自國民の生命や財産を律儀に守つてくれると考へるのは、あまりに樂觀的だらう。

日本で國家が國民の生命を守らなかつた典型は、第二次世界大戰末期の沖繩戰だらう。沖繩は敗戰までの時間を稼ぐ捨石と位置づけられ、學生を含む多數の住民が戰場に動員された。それだけでなく、スパイとみなされた住民や米軍に投降する住民が軍に殺されたり、「集團自決」に追ひ込まれたりした。「集團自決」は軍の直接の強制によるものではないとの主張があるが、背景には陸軍大臣東條英機が示達した戰陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」といふ玉碎思想があり、政府が國民を死に追ひやつた責任は免れない。

吉田敏浩『沖縄――日本で最も戦場に近い場所』(毎日新聞社)によると、終戰直前に少年だつたある住民は、家族ともども日本兵からスパイと疑はれ、撃たれさうになつたところをあやふく助かるが、戰後沖繩各地で住民が日本兵にスパイ容疑で殺されてゐたことを知り、かう理解する。「軍隊は住民を守らない、軍は軍そのものを最優先させる」(同書、209頁)。おそらく軍人の中には、自國民の生命を奪ふことに疑問を感じ、できるかぎりさうした行爲を避けた誠實な人物もゐたことだらう。しかし殘念ながら、政府の命令に從はなければならない以上、かれらは多數派にはなりえないし、事實ならなかつた。

沖繩住民にかぎらず、時間稼ぎの不毛な戰ひに兵士として驅り出され戰死した各地の日本人もまた犠牲者である。かれらを直接殺したのが米軍だとしても、降伏を拒み戰場に國民を送り續けた日本政府の責任は重い。沖繩戰が示すのは、自衞權を國家に獨占させれば、國民は自國政府から身を守れないといふ事實である。

ラミスは、國民が自衞權を行使する方法として、人民戰爭のやうに國民がみづからを直接防衞することも許容するが、一番望ましいのは、日本國民が「世界の平和運動の先頭に立〔つ〕」(175頁)ことだと述べる。しかしもしさうだとすれば、九條擁護派は、同じ本で「企業本位の自由な経済に政府が介入して国民生活の安定をはかるニュー・ディール方式」(195頁)を稱賛した鶴見俊輔のやうな、左翼的經濟觀を正さなければならない。國内外の人々を自發的な取引で結びつける自由經濟は、左翼の誤解と異なり、一般國民が日常的にかかはりつづけることのできる「平和運動」だからである。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)