復讐のコスト

肉親を殺されたことに對する復讐は、個人の權利である。その權利を國家の死刑制度は奪ひ、個人に復讐を許さない。これは個人の權利を不當に侵すものだから、死刑を廢止し、個人による復讐を復活しなければならない。反對者は「もし復讐が復活すれば、血なまぐさい殺し合ひが際限なく續く」と批判するだらう。しかしそれは杞憂にすぎない。なぜなら復讐にはコストがかかるからである。
山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)
評論家の呉智英は『サルの正義』(双葉文庫)で「人間の基本的人権の一つである復讐権が国家権力によって強奪されたのが死刑制度の本質」と喝破し、「死刑を廃止して復讐を認めるべきだ」(21-23頁)と主張する。一見暴論のやうだが、筋の通つた正論である。

さて、もし復讐が復活したら、社會は血で血を洗ふ復讐劇で滿ち溢れるだらうか。さうはならないだらう。復讐で殺人犯を殺すには、コストを要するからである。

この問題を考へるヒントになるのは、幕末期の實話をもとにした森鴎外の短篇小説「護持院原の敵討(ごじいんがはらのかたきうち)」(1913年發表。新潮文庫山椒大夫高瀬舟』などに所收。ここでは青空文庫から引用。漢字とかなづかひは變更)である。老武士を殺害した強盜を近親者が苦勞の末に探し出し、見事に敵を討つといふ話で、あらすじだけだと單なる武士道賛美のやうだが、さうではない。この作品が發表された大正初年は、日露戰爭(1904-05年)後に忠君愛國思想が強まるなかで、赤穗義士などの敵討を禮賛する風潮が廣がつた時期にあたり、かうした風潮に對する鴎外の懐疑と批判が投影されてゐる。

それが強く表れるのは、老武士の嫡男で、敵を探す旅の半ばで行方知れずとなる宇平の發言である。姿を消す直前、宇平は同行した叔父の九郎右衞門にかう言ふ。「歩いたつてこれは見附からないのが當前(あたりまへ)かも知れません」「をぢさん。あなたは神や佛が本當に助けてくれるものだと思つてゐますか」「龜藏〔強盜の名〕は憎い奴ですから、若(も)し出合つたら、ひどい目に逢はせて遣ります。だが……わたしは晴がましい敵討をしようとは思ひません」

國文學者の尾形仂が指摘するとほり、ここでは「殺害に対して殺害をもって報いるという武士に課せられた当為」「成功性のほとんど望めない探索行に神仏の加護を当てにしてのむなしい時間の浪費と憎悪の持続」「数々の公的規程に縛られた晴がましい報復形式等」が批判されてゐる(『鴎外の歴史小説岩波現代文庫、189頁)。鴎外は、武士の掟といふ免れがたい慣習のなかで精一杯に生きた人々に共感しながらも、淺薄な敵討禮賛への冷ややかな眼を失はなかつた。

この作品で復讐について理解できることは二つある。一つは、國家から事實上強制される復讐は、現代の死刑制度と同じく、個人の權利を尊重することにならないといふことである。宇平は父を殺した強盗を憎み、「若し出合つたら、ひどい目に逢はせて」やらうと思ふ。しかしそのための手段にすぎない敵討が、政府(幕府)の押しつける規程と形式に縛られ、武士道を鼓舞する道具として利用されることに我慢ならなかつた。

もう一つは、復讐にはコストがかかるといふことである。この作品では半年足らずで敵を討てたからまだよいが、もつと長い年月がかかり、最惡の場合、討てないまま野垂れ死にしてしまへば、まさしく「むなしい時間の浪費」でしかない。これは大きなコストである。經濟學が教へるとほり、探索行に費やした金錢だけでなく、その時間を他の行動に充ててゐれば得られたはずの滿足もコスト(機會費用)に含めるべきだからである。

もちろん、かりに今、復讐が復活すれば、現代の發達した交通手段や高度な探索技術を利用できるから、江戸時代のやうな苦勞はしないで濟むだらう。さらに進んで無政府社會が實現し、治安維持が民營化されれば、復讐は個人自身でなく、警備會社といふプロによつて代行されるだらうから、短期間で確實に加害者を捕へることができるだらう。警備會社同士の競爭で料金も下がるだらう。だがそれでも、復讐のコストといふ問題はなくならない。

家計を支へる男性が強盜に殺害され、妻子が殘されたとしよう。もし復讐で殺人犯を殺してしまへば、復讐心は滿たされるかもしれないが、金錢による賠償は得られない。これは復讐を選擇したことに伴ふコスト(機會費用)である。人間はつねになんらかの選擇をしながら生きるから、機會費用から解放されることはない。將來の生活が經濟的に不安であれば、犯人を殺したり自由を奪つたりするのでなく、働かせて賠償金を得ようと考へるのも、人間として自然な感情である。

進化心理學者のマーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンは、國家が個人から復讐の役割を奪ふことができた第一の理由は、復讐が「しばしば権利であるよりは重荷であったから」だと指摘する(蔵研也『無政府社会と法の進化』130頁より再引用)。普通の個人にとつて復讐は經濟的にも精神的にもコストが大きいから、だれかに代行してもらひたいと考へても不思議ではない。國家はその心理につけ入り、復讐の權利そのものを個人から奪つたのである。

個人が國家から復讐權を取り戻せば、金錢賠償よりも復讐心の滿足を選び、權利を行使する人はもちろんゐるだらう。身内を殘虐に殺された場合はとりわけさうだらう。しかし一方で、「憎悪の持続」に困難が伴ふ場合も少なくない。復讐のコストや犯人の悔悛の度合ひを考慮し、金錢賠償を選ぶ人が多數派になつてもをかしくない。民營化された裁判所が下す判決は、「1人殺せば懲役7、8年、3人殺せば死刑」(蔵前掲書、107頁)といつた無根據な國家のルールでなく、人々の多樣な意見の集合により形成される合理的ルールに則つたものとなるから、量刑への不滿から際限のない報復合戰に發展する恐れは小さいだらう。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)