戰爭は野蠻の衝突

戰爭は「文明の衝突」だといはれることがある。しかしそれは適切な表現ではない。なぜなら文明の本質は平和だからである。暴力を本質とする戰爭は、むしろ「野蠻の衝突」と呼ぶべきである。
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米國の政治學者サミュエル・ハンチントンは1996年の著書『文明の衝突』で、世界をいくつかの文明に區分し、冷戰終結後はイデオロギーの對立に代はリ、これら文明間の對立(とくに西歐文明とイスラム、中華文明との對立)が紛爭・戰爭のおもな要因になると述べた。この學説は2001年の9・11同時多發テロ以降、米國で政治家やタカ派言論人からイラク、アフガン戰爭を正當化する材料とされ、シナの脅威を強調するためにも引き合ひに出される。その流行は今も衰へず、日本では歴史學者の與那覇潤が『中国化する日本――日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋、2011年)を著し、日中戰爭(支那事變)は兩國間の文明の衝突だつたと論じてゐる。

しかし文明の本質は平和、戰爭の本質は暴力であり、互ひに水と油の關係にある。文明についてはのちほどまた述べるとして、まづは戰爭の本質が暴力、それもとりわけ野蠻で醜惡な暴力だといふ事實を確認しておかう。ナショナリズムが昂揚する時代には、戰爭がしばしば美化されるからである。

戰爭の暴力なら、映畫やドラマで知つてゐるといふ人がゐるかもしれないが、表現の規制もあり、わづかな流血ですら生々しく描かれることは少ない。逆説的だが、ドラマそのものを觀るよりも、原作の本を讀むはうが、鮮烈な映像が腦裏に燒きつくこともある。間違ひなくさうした本の一つといへるのが、スティーヴン・スピルバーグ製作總指揮のドラマシリーズ『ザ・パシフィック』の原作となつた囘想録、ユージン・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦』(伊藤真・曽田和子譯、講談社学術文庫、2008年。原書1981年)である。

著者スレッジ(1923-2001)は米國アラバマ州に生まれ、1942年に志願兵として海兵隊に入隊。第一海兵師團の歩兵として、パラオ諸島ペリリュー島の攻略戰、續いて沖繩戰に從軍した。本書はその兩戰場におけるすさまじい體驗を記したものである。

入隊後しばらく、米國本土で訓練に明け暮れるうちは「自分は敵の砲弾の餌食となるために訓練を重ねているという空恐ろしい現実は、どこまでも人ごとにすぎなかった」(37頁)といふスレッジは、まもなく南海の戰場で、「空恐ろしい現実」をいやといふほど思ひ知る。最も恐ろしいのは敵の砲彈だつた。「巨大な鉄鋼の塊が金切り声を響かせながら、標的を破壊せんと迫りくる……まさに暴力の極みであり、人間が人間に加える残虐行為の最たるものだった。……銃弾で殺されるのは、いわば無駄なくあっさりとしている。しかし、砲弾は身体をずたずたに切り裂くだけでなく、正気を失う寸前まで心も痛めつける」(116頁)

極度の緊張に、忍耐の限界を超えてしまふ者もゐる。ある夜、氣のふれた兵士が「助けてくれ、助けてくれ! ああ神よ、助けてくれ!」と大聲をあげて暴れだし、いつかうに靜まらないため、敵に氣づかれることを恐れてシャベルで毆られ、絶命する。この兵士の死について「その後、公式の説明を聞くことはついになかった」(161頁)。

發狂しないまでも、「地獄の深淵で、生き延びるための激戦を続けていると、文明という薄皮が朽ち果てて、誰もが野蛮人になる」(192頁)。かう記すスレッジが目撃したのは、重傷を負つた日本兵の口から金齒を奪ひとらうとする海兵隊員の姿だつた。

なんとしてもその金歯が欲しかったらしい。ケイバー・ナイフの切っ先を歯茎に当てて、ナイフの柄を平手で叩いた。日本兵が足をばたつかせて暴れたので、切っ先が歯に沿って滑り、口中深く突き刺さった。海兵隊員は罵声を浴びせ、左右の頬を耳元まで切り裂いた。日本兵の下顎を片足で押さえ、もう一度金歯をはずそうとする。日本兵の口から血が溢れ、喉にからんだうめき声をあげて、のたうち回る。(191頁)

結局、驅け寄つた別の海兵隊員が銃で日本兵を撃ち、とどめをさす。「最初の海兵隊員は何かつぶやいて、平然と戦利品外しの作業を続けた」といふ。他にも胸の惡くなるやうな描冩がいくつも出てくるが、これだけで十分だらう。

しかも戰爭の恐怖は、戰爭が終はつても終はらない。惡夢にうなされるからである。本書ではわづかに觸れてゐるだけだが、戰後、生物學の大學教授となつたスレッジが1994年に行つた講演をもとに著したエッセイ(ジョン・デンソン編著『戰爭の代償』〔未邦譯〕所收)によると、惡夢は二十五年間續いた。「冷や汗をかき、叫びながら目を覺ましたものだ。夢に見るのは、まるで本物の戰爭のやうだつた。惡夢が怖くて眠るのが恐ろしく、遲くまで寢ずに讀書をし、惡夢がやつて來ないやうに願つた夜もある」

スレッジは、戰友たちの勇敢さやお互ひに對する獻身的な姿勢を稱へながらも、戰爭そのものについては「野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である」(466頁)と總括し、囘想録を締めくくつてゐる。

文明の本質は、戰爭とはまつたく異なる。そこで大きな役割を果たすのは暴力ではなく、市場經濟である。人種、宗教、國籍を異にする個人であつても、「衝突」することなく、平和のうちに、他人が欲しがるものを與へる代はりに自分が欲しいものを手に入れ、互ひに滿足を高める。經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、「文明は平和的な協力(peaceful co-operation)の産物である」と述べた。戰爭は、平和的に築かれた文明を破壞する「恐るべき無駄」なのである。

人間はたしかに、宗教や言語といつた文化が異なるだけで憎み合ふ場合があるし、暴力を振るふ場合もある。しかしどんな暴力であつても、個人間や一族間のものであれば、戰爭ほど大規模な殺戮を伴ふことはない。近代の戰爭は政府によつて全國民が動員されるからである。政府は國民が戰爭を進んで支持するやうに、他國への憎しみを煽る。その目的に、「文明の衝突」などのもつともらしい學説が利用される。

しかし文明の本質とは、文化の違ひを超えた平和的な協力にあるのだから、異なる文明が「衝突」して戰爭を引き起こすといふのは、矛盾である。戰爭を引き起こすのは、文化の違ひではなく、違ひを暴力によつて否定しようとする野蠻な精神であり、それを利用する政府である。文化が異なれば戰爭は避けられないなどといふ煽動に騙されてはならない。

(「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)