戰爭の無力

人間はしばしば、自分の信じる價値觀を他人にも共有してもらひたいと考へる。その手段が言葉による説得であれば問題はない。しかし暴力や脅迫による強制は、間違つた手段である。とりわけ、大勢の人々を卷き込む戰爭といふ究極の暴力によつて特定の價値觀を押しつけようとするのは、愚かなことであり、手痛いしつぺ返しが待つてゐる。
アメリカ・力の限界
この苦い眞實を讀者に突きつけるのは、アンドリュー・ベイセヴィッチ『アメリカ・力の限界』(菅原秀譯、同友館、2009年)である。ベイセヴィッチは、エリート軍人を養成する米陸軍士官學校ウエストポイントを卒業後、ベトナム戰爭に從軍した經驗があり、1998年からボストン大學の國際關係論教授として教鞭をとる。2006年、イラク戰爭に從軍した二十七歳の息子が戰死してゐる。本書はエネルギーの自給自足を説くなど一部に同意しかねる部分もあるが、本質的な主張の正しさは、原書刊行(2008年)から五年たつ今でも變はらない。

2001年9月11日の同時多發テロ事件に見舞はれた當時のブッシュ政權は、「テロとの戰ひ」を宣言した。政權内部では、これは短期で終はる戰爭ではなく、一世紀以上も續く「世代を越える戦争」になるだらうといはれた。なぜなら、作戰の究極的な目的は「モロッコからパキスタン中央アジアからインドネシア、さらにフィリピン南部にいたる広大なイスラム世界を変革する」といふ壯大なものだつたからである。これは「世界を作り変える」といふこと以外の何物でもない、とベイセヴィッチは指摘する(77頁)。

このほとんど誇大妄想的な作戰の背景にある「分をわきまえない『優れたアメリカ』という考え方」(4頁)はどこから來るのか。米國人は保守層を中心に信仰心が厚いことで知られるが、長所は短所の裏返しでもある。信心は傲慢に轉じることもあるのだ。自身もカトリック信者であるベイセヴィッチは「謙遜の敵は信心ぶることである」と述べ、かう續ける。「アメリカの価値観と信念は全世界普遍のものであり、国全体が神から付与された目的に奉仕しているのだと思い込んでしまうのである。この信念に基づき、アメリカ人が持つイメージによって世界を作り変えようとしてしまうのだ」(12頁)

これだけでも十分に傍迷惑な話だが、價値觀の押しつけが政府を通じて行はれる場合、物事が純粹な宗教心や道徳心だけによつて動くことはまづない。つねに現世的で不純な動機がつきまとふ。ベイセヴィッチは齒に衣着せず、軍關係者のさうした狙ひを指摘する。「引退した将軍たちと提督たちは、国防機能が解体されては困るのである。国防機能を維持し、できれば拡大したいのが本音である」(226頁)。

かうして第二次世界大戰以來、「議会と行政府が結びついた大きな、しかも永久に拡大し続ける国防の機能」(111頁)が生まれることとなつた。ところが、それだけ肥大した政府の國防部門は「9・11を予見しても回避することができなかっただけでなく、事件の犯人を捕まえることもできなかった。イスラム過激派からの脅威に対して、現実的で秩序のある戦略を立てることもできなかった。こうした事柄に加えて、イラクアフガニスタンの戦争に関連してとんでもない間違いを繰り返している」(94頁)。

それどころか、政府は米國の敵に情報が漏れることを防ぐといふ口實で、守るべきはずの米國市民に對して祕密主義や情報操作を強めた。イラク戰爭では、女性兵士ジェシカ・リンチの「ほぼ出鱈目な感動的救出劇という架空の物語」を作り上げたし、アフガニスタン戰爭では、元プロフットボール選手パット・ティルマンが仲間の誤爆で死亡したにもかかはらず「急遽シルバー・スター勲章を与え、その偉業を讃えた」(114頁)。そしてもちろん、テロとの戰ひに關する政府の情報操作で最惡のものは、「存在しないイラク大量破壊兵器」(同)であつた。

ベイセヴィッチは、政府が企てたテロとの戰ひをかう總括する。「アメリカ合衆国が行使した軍事力は、大中東圏の人々を解放したわけでも、これらの地域をコントロールしたわけでもない。私たちは負け戦を戦ったのである。……アメリカ合衆国がその目的を達成するために強制力に依存するのは、不可能であることが決定的に証明されたのである」(213-215頁)。軍事的な擴大主義は、今や「アメリカの富と力を浪費させ、自由を危険にさらす」(85頁)ことになつた。米國は「冷戦と9・11によって生まれた壮大な幻想を、きっぱりとあきらめ」(224頁)、軍縮を進めるべきだとベイセヴィッチは提言する。

そもそも目的いかんにかかはらず、「問題の解決手段として、戦争を使っても、ほとんど思い通りにいかない」(215頁)ことを私たちはよく知つておくべきである。その意味で、戰爭は無力なのだ。もし米國から見てイスラム教に政治的な缺點があるとしても、それを米國やその同盟國が軍事力で變へようとするのは逆效果である。「ロシア国民がマルクス・レーニン主義の欠陥を発見したように、イスラム教徒自身がイスラム教の政治的な欠点を発見しなければならない」(235頁)。

テロとの戰ひを肯定し、それに協力した日本人にとつて、ベイセヴィッチの嚴しい指摘は他人事ではない。私自身、リバタリアニズムを學ぶ以前はテロとの戰ひを肯定してゐたこともあるが、現在は考へを改めた。道徳的に傲慢で、政治的に愚かな米國政府の行爲に手を貸し續けることは、一見無難な選擇のやうでも、やがて米國自身と同じく、「富と力を浪費させ、自由を危険にさらす」ことになるだらう。米國の傲慢で愚かな國家主義にではなく、謙虚で賢い自由主義に學ぶべきである。

(「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)