「外部の理由により判斷」など

野嵜さん、またこちらに書きます。

我々は、生命にしても財産の自由にしても、存在して良いか良くないかを、それ自體として判斷しません、外部の理由により判斷します。

すると私や私の家族が「存在して良いか良くないか」は、誰かがその場その場の「外部の理由により判斷」するといふことになりますね。そんなとんでもないことには到底承服できません。もし私が先に他人の生命や財産を奪つたのであれば、刑罰として自分の生命や財産を奪はれても仕方ない。しかし漠然と「外部の理由により判斷」などと言はれた日には、生命がいくつあつても足りません。生命・身體・財産は「それ自體」侵すべからざるものです。

カルヴァンが職業の神聖を唱へ蓄財を認めたのも、背景に神の存在を認めたからです。

ここでカルヴァンの名をお出しになつたのはまことに示唆に富みます。カルヴァンが嚴格な神權政治で統治した十六世紀のジュネーヴは、まさに「外部の理由」次第で生命や財産をいつ奪はれるかわからない、あまり住み心地の良くない國だつたからです。故國オーストリアから亡命を餘儀なくされたユダヤ人作家のシュテファン・ツヴァイクは、カルヴァンジュネーヴナチス治下のベルリンに喩へてゐるさうですが、「外部の理由」とやらが生殺與奪を決めるやうな國には、ツヴァイク同樣、私も住みたくありません。*1

蓄財には正當な蓄財と不當な蓄財があります。この「正當」「不當」の判斷は、經濟の觀點以外の觀點からなされねばなりません。

私の判斷基準は「暴力・脅迫・詐欺による蓄財は不當。それ以外は正當」です。これは經濟的なものではありません。言葉の正しい意味において道徳的なものです。それが「最低限の道徳」だとしても。野嵜さんの基準はどのやうなものですか。

河合榮治郎が隨分昔に經濟における自由放任主義の限界に氣附いてゐて、經濟の觀點を超えた理想主義的な觀點からの自由主義を説いてゐます。

最近、その河合榮治郎の時代と同じやうに、右も左も「自由放任主義の限界」を聲高に叫び、殘念ながら野嵜さんのやうな方までそれに同調されてゐますが、そんな紋切型の議論に私は騙されません。河合榮治郎が心醉したイギリスのトマス・ヒル・グリーン福祉國家の思想的基礎を築いた人ですが、その後、福祉國家は經濟的に行き詰まり、自由放任主義以上の「限界」を露呈しました。グリーンはもちろん、戰中に歿した河合榮治郎も福祉國家の末路を見ることはありませんでしたが、福祉國家の現實を議論せずに河合榮治郎の「理想主義」を稱へても仕方ありません。福祉國家を唱へる理想家たちは、「經濟の觀點」を無視し、政治の力で人間を幸せにできると信じてゐますが、自由放任主義者はそんなことは不可能だと知つてゐるのです。

塗炭さん

一党独裁体制または私有財産禁止などの政治制度は共産主義の理想ではありません。

するとリバタリアン共産主義を恐れる必要はないんですね。ああよかつた。

木村さんは「良い人」と善人との区別はされて居るけれど、自分は善人である、と思つてをられる。道徳的には自分は悪人であると思つて居る人よりも罪深い。

相變はらず手嚴しいですね。しかし泥棒の被害者が泥棒に向かつて「反省してくれればいい」と言つた程度のことで、僞善者呼ばはりされて地獄に墮ちなきやならないんですか。なんだか割に合ひません。私のやうに「最低限の道徳」しかわからない者には、「より善く生き」るつてのは隨分難しいことなんですね。

<こちらもどうぞ>

*1:ちなみにリバタリアンの偉大な經濟學者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスツヴァイク同樣、オーストリア出身のユダヤ人で、ナチスの臺頭から逃れてアメリカに移住した經歴の持主です。