サイバーケインジアン!

池田信夫と言へば、ウェブ論壇の著名人であり、經濟分野ではナンバーワンの人氣ブロガーだ。私も池田氏の文章はたいてい讀む。勞働や通信の規制に對する批判をはじめ、同感できるものも少なくない。規制緩和と聞いただけで「このネオリベ」といきり立つ輩が多い昨今、池田氏はよく自説を貫いてゐる。

だから經濟的自由を擁護するこのブログで、ことさら批判する必要はないのかもしれない。何も書かない方が賢明なのかもしれない。さう、もし池田氏がリバタリアンと名乘つてさへゐなければ。

池田氏は「サイバーリバタリアン」を自認してゐる。サイバーの意味がよくわからないが、リバタリアンの一種であることは間違ひなからう。また、掛値なしのリバタリアンであるハイエクについての著書もある。しかし池田氏の發言を全體として見た場合、とてもリバタリアンとは呼べない。

その一つの證左は、ケインズ派ケインジアン)經濟學者が書いた本をやたらと持ち上げることだ。以前もグレゴリー・マンキューの書いた經濟學の教科書をほめちぎつてゐたが、最近の書評で、今度は日本の大學教授らの出版した教科書(齊藤誠・岩本康志・太田聰一・柴田章久『マクロ経済学有斐閣、2010年)を推奬してゐる。

ケインズ派經濟學の特徴を一言でいへば、政府による經濟への介入を積極的に認めることだ。その教祖であるケインズハイエクが強く批判したことからもわかるやうに、政府介入に反對するリバタリアンとは水と油の關係にある。批判のために讀めといふならともかく、リバタリアンケインジアンの本を良書として江湖に勸めるなど、キリスト教原理主義者がコーランを勸める以上にあり得ないことだ。

マンキューや今囘の『マクロ経済学』の著者らは、ただのケインジアンではなく、「ニューケインジアン」と呼ばれてゐる。舊來型のケインジアンが政府による經濟の操作を露骨に主張してゐたのに對し、「ニュー」の方はそれなりに現實に即して軌道修正してをり、あからさまな介入には遠慮がちだ。池田氏も書評ではさうした側面を強調してゐる。だがこれはかへつて讀者に誤解を與へる。ニューケインジアンはやはりケインジアンであつて、介入そのものに反對なわけではないからだ。

たとへば、財政政策は國民から奪つたカネを別の國民にばらまく有害無益な行爲だが、『マクロ経済学』の著者らは財政政策をやめろとは決して言はない。かつてケインズが例に出した、穴を掘つては埋め直すといつた明らかに馬鹿げた「事業」にこそさすがに否定的だが、代はりに「価値がある事業を優先すべきである」(365頁)と主張する。

だが事業の價値の高低を知り、優先順位をつけることは、政府にはできない。個々の消費者がどのやうな商品・サービスをどれだけ望んでゐるか、その厖大な情報を政府が集計することは不可能だからだ。これは池田氏も自著で書いてゐる通り、ハイエクが社會主義經濟について指摘したことだが、公共事業についても當てはまる。

また『マクロ経済学』の第11章「安定化政策」の扉(331頁)では、第一次石油危機による物價高やサブプライム・ローン問題後の世界同時不況などを經濟への「ショック」として舉げ、「政府と中央銀行には、財政政策と金融政策によって、こうしたショックを相殺して、経済を安定化させる役割が期待されている」と書いてゐる。

しかし物價の昂騰や資産價格のバブル、その後の恐慌を引き起こすのは、外部からの「ショック」などではなく、中央銀行による通貨供給量の膨脹だ。これもハイエクやその師であるミーゼスが明らかにしたことだ。經濟をむしろ不安定にする「安定化政策」を臆面もなく肯定するケインズ派の教科書。リバタリアンなら、そんな本をアマゾンへのリンクまで張つて奬めなくても良ささうなものだ。

だが池田氏の書評で一番呆れたのは、次の一言だ。

官邸や財務省のスタッフには基礎学力があるので、経済学の知識をアップデートしてほしい。

リバタリアンが認める政府の役割とは、せいぜいのところ、警察、司法、國防といつた治安や安全保障にかかはるものだけだ。間違つてもケインズ流の經濟政策が含まれることはない。總理官邸詰めの役人だらうと財務官僚だらうと、介入政策の仕事に精を出すために「経済学の知識をアップデート」してもらふ必要などさらさらない。そんな仕事はそもそも不要なのだから。

かうして見てくると、池田氏は本當はリバタリアンなどではなく、ケインジアンだと思へてきた。もしさうなら讀者を惑はさぬやう、「サイバーケインジアン」とでも看板を掛け替へてほしい。さうしてくれれば、私はもつと素直に池田氏の文章を樂しむことができるだらう。

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