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政治問題は道徳問題

世の中には二種類のルールがある。政治の場で決まるルールと、政治以外の場で決まるルールだ。前者の代表は法律であり、後者の代表は道徳だらう。

法律上の合法違法と道徳上の善惡は必ずしも一致しない。たとへば自動車で日本の道路の右側を走つたら違法だが、右側通行そのものが道徳的に惡いわけではない。米國に行けば逆に左側通行が違法になることからもわかるやうに、左右のどちらを合法、どちらを違法とするかは、たんなる便宜上の問題にすぎない。

だが一方で、法律上の合法違法と道徳上の善惡が一致する場合も少なくない。たとへば他人の財産を盜むことは、法律上は竊盜罪となり違法だが、道徳上も惡とされる。日本でもアメリカでも、その他どの國でも、生活に困つた者がやむを得ず盜みを働き、同情されることはあつても、盜みそのものが道徳的に立派な行ひとしてほめられることはない。

もし私が總理大臣だつたとして、刑法改正の議論の場で「物を盜られるのは精神がたるんでゐるから。これからは盜んだ者を罰するのでなく、盜まれた者を處罰しよう」などと提案したら、どうなるだらうか。言ふまでもない。とんでもない妄言を吐く輩として世間から袋叩きにあふだらう。なぜか。法律、つまり政治の力によつて道徳を踏みにじることは許されないと世間の人々が信じてゐるからだ。この信念は正しい。

だが人々は、政治の力で道徳を踏みにじらうとする企てをつねに見拔けるわけではない。たとへば中央銀行によるインフレ政策は、市民が保有する貨幣の價値を奪ひ、その價値を政府やその關係者に移轉させるから、本質的に盜みなのだが、あからさまな盜みに比べそれほど強い非難を浴びることがない。それは一つには、人々が經濟政策は交通規則と同樣の技術的な話にすぎず、道徳にかかはるやうな事柄ではないと誤解してゐるからだ。

かうした誤解は、市井の一般人に限らない。政治權力の横暴を批判する自由主義的な智識人ですら、十分に理解してゐない場合がある。

ヴィクトル・ユーゴーと言へば長篇小説『レ・ミゼラブル(ああ無情)』の作者で、十九世紀フランスの文豪として名高いが、同時に共和主義を信奉する政治家でもあつた。ルイ・ナポレオン(後のナポレオン三世)がクーデターで政權を掌握すると國外に逃れ、十九年に及ぶ亡命を餘儀なくされるなど、波亂の生涯を送つてゐる。

ルイ・ナポレオンは1851年に踏み切つたクーデターで、國會議員十五人を逮捕、威嚇のためパリ市民に攻撃を加へた。その後普通選舉による國民投票で信任されたが、ユーゴーは「小ナポレオン」で次のやうに激しく批判した。たとへ普通選舉で有權者の大多數が賛成票を投じても、人間の良心が許さない。「犯罪は犯罪である、背任は背任である、殺人は殺人で、血は血であり、汚泥は汚泥、惡黨は惡黨である」。普通選舉は政治問題について絶對的であつても、道徳上の問題については權限がない。

海に働く人びと・小ナポレオン (ヴィクトル・ユゴー文学館)

ここまでユーゴーの主張はまつたく正しい。だが續く部分は問題をはらんでゐる。少し長いが引用しよう。

さて、この普通選舉に平和と戰爭を任せよ。軍隊の兵員數、融資、豫算、公的援助、死刑、判事の非罷免性、結婚の解消不能、離婚、女性の法的・政治的身分、教育の無償、市町村の基本法、勞働の諸法、聖職者の俸給、自由貿易鐵道、交通、植民地化、租税法を普通選舉に任せよ。(略)[だが]ジャンあるいはピエールが、小作地でりんごを一つ失敬したのが良かつたのか惡かつたのかを知らうとする問題に、普通選舉に決着をつけさせてみよう。そこで普通選舉は機能停止する。うまくいかない。なぜか? この問ひの方がくだらないのか? いや、この問ひの方が高尚だからだ。(略)政治、財政、社會の問題は普通選舉に依存してをり、それ次第なのである。道徳の最も小さな問題の最も小さな一要素は、普通選舉によつて解決を得ないのだ。*1

この文章について、リバタリアンの哲學者、ロデリック・ロングは次のやうに指摘する。*2 ユーゴーが道徳問題について多數決の權威を否定したのは正しい。だが「平和と戰爭」以下に列舉された諸問題が道徳と無縁のたんなる政治問題にすぎず、したがつて民主主義でどのやうに決定しても構はないと考へたのは、大きな誤りと言はねばならない。

なぜならこれらの諸問題はすべて、突き詰めれば「ジャンあるいはピエールが、小作地でりんごを一つ失敬したのが良かつたのか惡かつたのか」といふ道徳問題の變形にすぎないからだ。つまり、ある人間の集團が他の集團を攻撃したり搾取したりしてよいかといふ問題なのだ。

もし道徳に照らし、ジャンやピエールが小作地の持ち主から林檎を盜んではならないのであれば、百萬人のジャンやピエールが結託して小作地の持ち主から税を取り立てることも許されないはずだし、戰爭に強制參加させることもできないはずだ。

道徳問題は投票者の手に委ねるべきでない。だがそれはユーゴーの列舉した「政治、財政、社會の問題」についても同樣に言へることだ。ユーゴーは道徳問題に關する自分自身の主張が論理的に大きな廣がりを持つことに氣づかなかつた。政治問題が強制や暴力にかかはる以上、それは道徳問題なのだ。

ユーゴーと同時代の自由主義者で、それに氣づいてゐた者もゐたとロングは指摘する。その一人がやはりフランス人で、經濟學者のフレデリック・バスティアだ。バスティアは「法」といふエッセイで次のやうに述べてゐる。

一個人は、合法的に他人や、他人の自由や他人の財産に對して、力を行使できないのだから、集團がもつ集團的權力は、同じ理由によつて、合法的には、他人や、他者の自由、もしくは諸個人や諸グループの財産に對して行使できない。*3

人間は論理的思考によつて、ある命題Aの眞僞から別の命題Bの眞僞を導く。バスティアが正しく指摘したやうに、一人の人間に許されないことは、政府といふ名の集團にも許されないはずだ。ユーゴーは勇氣ある行動的自由主義者だつたが、バスティアに比べ論理的思考が不徹底で、そのため政治問題と道徳が無關係とみなす過ちを犯した。だがわれわれはユーゴーを笑ふことはできない。現代の日本でも「政治、財政、社會の問題」は道徳と無關係だと思ひ込んでゐる人々が壓倒的に多數なのだから。

<こちらもどうぞ>

*1:庄司和子・佐藤夏生譯。『ヴィクトル・ユゴー文学館 第八巻』(潮出版社、2001年)所収。原文は新字新かな。

*2:http://www.lewrockwell.com/long/long12.html

*3:きゅうり譯。原文は新字新かな。http://libertarian.up.seesaa.net/rand/THE_LAW.pdf