【寄稿】タイガーマスクの伊達直人的行為の拡大について

プロレス漫画タイガーマスクの主人公伊達直人を名乗る人物が昨年のクリスマスに前橋市児童相談所にランドセル10個を寄付したことがメディアによって全国へ伝えられた。これを契機に、全国の自動養護施設等で生活している恵まれない子供への匿名の人物からのランドセルは勿論、種々の学用品や食料品等の寄付行為が、全国的規模に拡大し、中には物品以外の金銭の寄付や学習支援等のボランティア活動も見受けられるようになったと聞く。

タイガーマスク(1) (講談社漫画文庫)

こうした活動に対するマスメディアの評判は上々である。私も拍手喝采をする。但し私は世論やメディアの評価をすべて知っているわけではないが、リバタリアンの立場からは彼らが評価の根拠とする思想に重大な誤りがあることを危惧する。その誤った思想とは次の如きものである。

(1)弱肉強食の資本主義社会では、人々のつながりが失われ、弱者は放置されるのが常であるのに、伊達直人的善行は洵に奇得な行為であるという類の意見に代表される思想。
(2)政府は児童手当を支給したり、授業料無料化等の対策を行ったりしてはいるが、福祉政策は不十分であり恵まれない児童への支援にまで手が届いていない。伊達直人的善行の拡がりは政府のなすべき福祉事業を代行するものである。もっと政府は本腰を入れて福祉事業に取組むべきである、といった類の意見に代表される思想、がこれである。

(1)についての私見は、上記のような思想は資本主義の本質を見誤っている点において、(2)については、政府の公的扶助の性格についての正しい認識を欠落している点において、共に誤りであるとするものである。

私見では、資本主義は弱肉強食的でなく、その反対である。福祉的行為は本来、個人なり私企業なりが自分の身銭を切って自発的に行うべきであり、政府に対する福祉政策の拡充要求は筋違いである。伊達直人的行為こそ福祉の本筋であると私は考えている。以下でこの考えをいま少し詳細に説明しようと思う。

私が長い歳月を費やして学習してきた新オーストリア学派の中心人物であったルートヴィヒ・フォン・ミーゼスによれば、資本主義すなわち市場経済の欠陥として非難されるのは、貧困、富と所有の不平等、不安定が市場経済では不可避的であるという主張に収斂されるが、それらの難点は自由な市場経済ではなく、妨害された市場経済が生むものである。政府の役割は個人の生命と財産を国内外の暴力や詐欺による侵害から守る任務に限定されるべきであるのに、それを守らず、個人と市場に種々の干渉を行う結果、非難されるような現象が発生したという。ここでは問題を貧困に限って説明すると、干渉されない(自由な、或は妨害されない)市場経済の枠組の中では、働く意志と能力を有しながら、定職を発見できない人は存在しない筈であるから、貧困者もまた存在しない。だから貧困者は生得の欠陥や事故による障害、恵まれない環境におかれている子供や高齢の為労働できない人々に限られている。

ヒューマン・アクション―人間行為の経済学

こうした貧困者を支える家族や近親者が存在しない場合、彼等は慈善による私的救済を受けることが出来る。一般に市場経済の発達に伴い、所得と富が増加し、一方では慈善事業に自発的に提供される資金量や養護施設等が増加する。他方、普通の人間であれば、事故、病気、老齢化、子供の養育等を予想して、就労可能な期間に貯蓄や保険による備えをするのが常であるから、慈善に依存する必要は少なくなる筈である。慈善による救済が資金不足の為に成立しないという説は根拠を欠く。但し、政府が紙幣を増刷して通貨価値が下落する等、諸種の干渉主義政策の影響で、不運に遭遇した場合の備えとしていた貯蓄の価値が低下したり、病院や養護施設等の基本財産が事実上没収されるに等しい状態になったりすれば、私的救済を受ける人が増大し、慈善の為の資金不足が生じるのは当然である。これは自由な市場経済、すなわち資本主義のせいではなく、干渉主義政策の影響と考えてよい。

私的救済に代るのは社会保障制度による公的救済である。ミーゼスはこれに対して否定的評価を下している。その理由はこの制度が人間本来の自助努力への誘因を多少とも弱める可能性があるからだと彼はいう。「慈善による救済を止めて、その代りに法律によって強制可能な扶養または生存の請求権によるとするのは、あるがままの人間性に適合するとは思われない」と説明する。

ところで、市場経済が発達すれば、慈善事業の為に自発的に提供される資金量が増大したり、養護施設等が拡充される傾向が生じたりするのは、一体何故であろうか。この理由についてもミーゼスは次のように述べている。市場経済は自由な社会的協業の秩序形態であって、社会の構成員の間に同情と友愛の感情や連帯感を生む源泉だからである。

社会的協業の秩序形態とは、自生的な社会的分業のことである。分業は弱肉強食の反対である。人は自分の得意とする特定の分野の仕事に自分の能力を集中させることによって優れた製品や知識を創造し、これを交換し合うことにより、計り知れないほどの利益を相互に得ることが出来る。この分業による社会的協業が文明の母である。同情と友愛、社会的連帯感は、分業による社会的協業の果実であって、社会的協業の枠組の中でこそ栄えて来た。だからこそ分業による社会的協業が拡大・発展すればするほど、自発的な援助、恵まれない者への同情、友愛の感情も期せずして育成されて来るといえるのである。

分業による社会的協業の発展は決して貨幣を毟り取ることに専念するウォール街の金融業者の強欲や、弱肉強食の冷血漢を生むものではない。真実はその逆なのである。成程、世の中には、守銭奴もおれば冷血漢も存在している。それは政府の干渉主義の政策によってそうした人物や企業が出現したことを意味するに過ぎない。敵は市場経済ではなく、市場経済の正常な作動を阻害し、或は誤作動させる干渉主義政策であるといってよい。

以上がミーゼスの思想と論理の要約であり、私もこれに共鳴する。歴史的にもこの論理が正しいことを示している。現にアメリカでは寄付行為は日本の十倍に近いといわれている。このような立場から伊達直人的現象を評価するならば、匿名性という点で、いささか人々の意表を衝くものではあるが、そうした寄付行為の拡大こそが福祉の本筋であり、政府の福祉事業の拡充などは、逆に邪道であって、政府にはそのようなことを為す能力も権利もない。福利厚生は自分のポケットからの金で行うべきものであって、税金で個人の金を取上げ、その金で恣意的な所得の再分配を行わんとする政府こそ反社会的、反福祉的存在というべきであろう。

特に日本の政府は国民の生命・財産を守るという本来の任務を果していない。その証拠に国民を他国へ拉致させるという失態を重ね、長い年月を費しても、それらの拉致された人を取り戻す能力さえ欠いているではないか。政府は福祉などの余計な干渉主義政策に手を染める以前に、本来の任務を遂行することが肝心であろう。

伊達直人的な人々はおそらく大金持ではあるまい。彼等の中には恵まれない環境の下で苦労した人物も含まれているのではあるまいか。そうした人々が昔の自分を顧りみて、現に恵まれていない子供たちに役立つ行為をしたいと切望し、あのような善行をなしたケースも少なくないと想像される。匿名ということも、偽善者や売名によって利得しようとする卑しい人物が少くないこの世の中で奇特なこととして理解されるべきではなかろうか。私は大金持や国民の税金によって高い収入を得ている筈の政治家や役人が、自分のポケットからの金で善行を積むことが当然視されるような習慣が生まれることを願う者である。

新オーストリア学派の思想と理論 (MINERVA現代経済学叢書)

【筆者紹介】越後 和典(えちご・かずのり) 1927年滋賀県に生まれる。1950年京都大学経済学部卒業。現在、滋賀大学名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。産業学会名誉会員。経済学博士。著書に『競争と独占』(ミネルヴァ書房、1985年)、『新オーストリア学派の思想と理論』(同、2003年)など。

<こちらもどうぞ>