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自由は弱者にやさしい

自由主義は「強者の論理」だと思つてゐる人が多い。私も自由主義について詳しく知る前はさう考へてゐて、芥川龍之介の「自由は山嶺の空氣に似てゐる。どちらも弱い者にはたへることはできない」といふ言葉を格好よいなどと思つてゐた。
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しかし實際は違ふ。むしろ自由ほど弱者にやさしいものはない。そのことはたとへば、タナダユキ監督の映畫『百万円と苦虫女』を觀ればわかる。蒼井優主演で二〇〇八年に公開され、高く評價された。監督自身が原作を小説として執筆してをり、それが今年幻冬舎文庫に入つた(以下、引用は小説版から)。

平凡で目立たない二十一歳の鈴子はある日、罰金二十萬圓の刑を受ける。たまたまルームシェアしなければならなくなつた男に、拾つた子猫を雨の中に捨てられたことが許せず、男の荷物をすべて勝手に廢棄してしまつたからだ。男女關係がなかつたので戀のもつれによる民事事件といふことにできず、刑事事件として器物損壞で有罪になつてしまふ。

輕い罪とはいへ、前科者になつた鈴子に周圍の目は冷たい。ゐたたまれなくなつた鈴子は決心する。アルバイトをして、百萬圓貯まつたらこの街を出よう。そしてその後も百萬圓貯まるごとに、自分を知つてゐる人が誰もゐない土地を轉々としよう。鈴子は旅に出る。

劇中鈴子が訪れる場所は三カ所で、それぞれの土地で小さな物語が生まれるが、最も印象的なのは、二番目の山の村だ。農家で桃の收穫を手傳ふうちに、村長をはじめとする村人たちから、村おこしのため、「桃娘」になつて村をテレビでPRしてほしいと頼まれる。桃娘になつてくれれば、國から村の豫算が多めに出て、村民の暮らしも少しづつ樂になるといふ。

鈴子が斷ると、村人たちは怒つて罵聲を浴びせる。「おめら都会の人間は、いっつもそうだべよ。田舎はいい、なんつって勝手にやって来てよ」。桃農家の長男は「こんなさなるまで財政うっちゃってて、自分らで立て直すかと思ったらよ、外から来た、あの子頼みなんて」と言ひ返すが、村人の多くは自分たちの責任を省みようとしない。たまりかねた鈴子は、自分には前科があり、テレビに出るのは無理だと告白し、村を去る。

いま紹介した部分だけでも、自由は弱者のためのものであることがわかる。鈴子は氣丈ではあるが、女であり、短大卒のフリーターであり、おまけに前科者である。社會的には典型的な弱者と言へる。
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その鈴子が何とか心穩やかに生きてゆくことを支へてくれる自由が、少なくとも三つある。政府から邪魔されず、住みたいところに住む自由、引越したいときに引越す自由、そして働く仕事を選ぶ自由だ。この三つの自由はたまたま、日本國憲法第二十二條第一項に「居住、移轉及び職業選擇の自由」としてまとめて記されてゐるが、憲法に書かれてゐようとゐまいと、人間が本來もつべき權利だ。

これらの自由がなければ、ふらりと旅に出て、行く先々でさまざまなアルバイトをしながら暮らすことなどまづできない。もし鈴子が自由を奪はれた社會に生まれてゐたら、いつまでも故郷の街で前科者と後ろ指をさされながら、息を詰めるやうに生きてゆくしかなかつただらう。自由がなければ、村といふ地方政府に逆らふことはできず、前科があらうと、人前に出るのが嫌ひだらうと、默つて桃娘をやらなければならなかつただらう。

強者であれば、自由のない社會でも、氣に入らない相手を權力や暴力で排除し、それなりに快適に過ごせる。しかし弱者にそんなことはできない。自由な社會のよいところは、力のない弱者であつても、平凡に、普通に努力することで、自分の望まない生き方から少しでも遠ざかり、望む生き方にわづかでも近づける點にある。

逆に權力や暴力に勝る強者でも、自由な社會(無法な社會ではない)では、その力を不當に行使することはできず、弱者と同じ土俵で競はなければならない。鈴子の弟の拓也は小學校で執拗ないぢめにあふが、自由な社會では、少なくとも大人の間で暴力が見過ごされたままになることはないし、腕力で人生が決まることもない。不良が強者なのは學校社會の中だけだ。

鈴子が拓也と二人で夕暮れの團地の芝生を手をつないで歩くシーンは、映像の美しさとともに、心に殘る。中學の同級生たちから「前科者」と口汚く罵られ、三人の相手に一人で立ち向かつた姉を、拓也は口には出さないが、偉いと思ふ。

監督のタナダユキは、「社會的弱者」に妙な同情などせず、人間にとつて大切な本當の強さは、理不盡に屈さない心の強さだと率直に訴へてゐる。蒼井優もそんな強さをもつ鈴子を見事に演じてゐる。このやうなすばらしい作品が女性によつてつくられる自由は、作中で描かれた自由と同じく、決して強者のものではない。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)