読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ふしぎな「資本主義の精神」

今年ベストセラーとなつた橋爪大三郎大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)は、誤りが非常に多いとしてキリスト教徒からツイッター批判されてゐたやうだが、その内容がふツー連編『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』(ジャーラム出版)といふ紙の本になつたので、讀んでみた。私はキリスト教徒ではないし、キリスト教の專門智識もない素人だが、橋爪大澤本のひどさはよくわかつた。ただし批判本では、經濟に關するをかしな記述に十分觸れてゐないので、ここで勝手に補足しておかう。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
キリスト教と經濟の關係と言へば、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で主張した説が有名である。それによると、世俗の利益を抛棄した禁欲的なプロテスタント(舊來のローマ・カトリックを批判する宗教改革をきつかけに成立したキリスト教各宗派の總稱)の信仰が、逆説的にも、世俗の利益を追求する「資本主義の精神」を形成したといふ。

この説はヴェーバーがおよそ百年前に唱へて以來、批判も多く、最近では羽入辰郎が『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房、2002年)で、論據の選擇や論證過程が不適切であり、しかもそれはヴェーバーが自説に都合よく意圖して行つたものだと斷じ、論爭を卷き起こしたが、社會學會では依然として主流の説であり、學校でもそのまま教へられてゐる。橋爪大澤本も、批判があるとは認めながらも、結局はヴェーバー説は正しいとの前提に立ち、プロテスタントの信仰がなぜ「資本主義の精神」につながつたかをわかりやすく解説しようとする。

ところが、この解説が恐ろしくわかりにくい。プロテスタントの中でヴェーバーが最も注目するカルヴァン派の豫定説(救はれる人間はあらかじめ神の意志により決まつてゐるといふ教義)について、橋爪は「ゲーム理論を使って、考えてみましょう」(301頁)と言ひ出し、豫定説を信じる社會では自墮落に暮らす人ばかりになるはずだといふ結論をわざわざ導くのだが、その程度のことなら、大仰にゲーム理論など持ち出さなくてもわかる。事實、少し前の箇所で大澤が、もし教師が學期の授業が始まる前に學生に「君らの成績はレポートを出す前から決めてある」と言つたら、學生は意欲を失つて怠けるだらうといふたとへ話をしてをり、これで十分わかる。

しかも橋爪は、ゲーム理論分析の結果にもかかはらず實際は自墮落に暮らす人ばかりにならないのは、神の恩寵を受けてゐると確信するために勤勉に働くからだと述べ、大見得を切るやうにかう言ふ。「神の恩寵は、ゲーム理論の戦略的思考を超えている」(302頁)。だがそもそも橋爪がやつてみせたゲーム理論分析には、神の恩寵を確信するためなら人々は勤勉に働くといふ條件が拔けてゐるから、それを反映した戰略が導かれるわけがない。

舉句の果てに橋爪は、「恩寵を感じない自墮落な人も、さも勤勉そうにしていないと、ビジネスに差し支える」「パン屋はパンが売れない、銀行は預金が集まらない。商売できなくなってしまう」(302頁)などと述べる。しかし救はれてゐない人間を村八分にして取引しないといふことにはなるまい。橋爪自身がすぐ後(305頁)で述べるやうに、キリスト教徒はユダヤ教徒からも金を借りてゐた。キリスト教徒から見て最初から救はれるはずのない異教徒と取引して構はないのなら、多少怠け者でも同じキリスト教徒と取引していけないはずはない。キリスト教の教へである隣人愛にも反する。もし商賣が苦しくなるとしたら、怠けてゐることそのものが原因だらう。

このやうにわけのわからない解説になるのは、もともとヴェーバーの説に無理があるからである。マレー・ロスバードが指摘するやうに、近代資本主義が始まつたのはプロテスタントの勢力が強い地域ではなく、ローマ・カトリックの總本山である中世イタリアの都市國家だつた。近代的な企業經營に缺かせない複式簿記は、十四―十五世紀にヴェネツィア商人によつて發明されたと考へられてゐる。十三世紀フィレンツェの帖簿には「神と利潤の名において」といふ格言が記されてゐた。

イタリアだけではない。十六世紀初め、歐州屈指の富豪として知られたヤーコプ・フッガー(Jacob Fugger)は南部ドイツ出身の敬虔なカトリックだが、「できるかぎり永く金を稼ぐ」と宣言し、引退を拒んで生涯働いた。

一方、イングランド、フランス、オランダ、北米植民地などでプロテスタントカルヴァン派が多い地域はたしかに經濟的に繁榮したが、これらの地域に劣らずカルヴァン派の信仰が厚いスコットランドはいつまでも貧しかつた。

かうした事實から見る限り、もし「資本主義の精神」なるものの形成にキリスト教がかかはつたとすれば、それはプロテスタントではなく、カトリックに遡ると言ふべきだらう。ヴェーバー説は誤りを正されなければならない。しかし橋爪大澤本はそれを無批判に推し戴き、わけのわからない解説によつて、誤りを増幅させてゐる。
ふしぎな「ふしぎなキリスト教」 (ジャーラム新書)
批判本の共著者の一人である植田真理子は、『ふしぎなキリスト教』で述べられたキリスト教の教義や儀禮は聖書や祈祷書や神學書にしつかりあたつたものではなく、ヴェーバーら「社会学者が自説に都合よくデフォルメしたキリスト教の内容」だと述べる(批判本、13頁)。「資本主義の精神」に關する記述はまさにその典型であり、ヴェーバーの誤りを一般讀者の間に大量にばらまいてゐる。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)