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自衞權はいらない

自衞權は國家固有の權利であり、獨立國である以上、自衞權を持つのは當たり前だ――。政府はこのやうに主張し、國民の多くもさう信じてゐる。しかし國家が自衞權を持つといふのは、個人の正當防衞權とは異なり、けつして自明の理ではない。とりわけ日本においては、憲法により、國家の自衞權は否定されてゐると考へるべきである。これは日本人にとつて幸ひである。なぜなら國家の自衞權は、守るべきはずの國民の安全をむしろ脅かすからだ。だから自民黨の改正草案のやうに、憲法で國家の自衞權を認めるのは、改惡でしかない。

現代の平和主義と立憲主義
もう二十年近く前に出たものだが、自衞權に關する通念を覆してくれる本がある。憲法學者の浦田一郎による『現代の平和主義と立憲主義』(日本評論社、1995年)である。日本國憲法における自衞權について、代表的な學説は三つに分かれる。(1)自衞權自體は認められてゐるが武力の行使は許されない(武力によらない自衞權論)(2)自衞權は認められてをり武力の行使も許される(武力による自衞權論)(3)自衞權自體が認められてゐない(自衞權否認論)――である。このうち(1)は多數説、(2)は政府見解で學會では少數説、(3)は少數説である。浦田は(3)の自衞權否認論をとる。日本國憲法の下では、國家に自衞權はないといふ見解である。

おそらく多くの人々は、なんと現實離れした考へかと思ふことだらう。私もこの本が出るさらに十年ほど前、さう思つた。といふのも、浦田は大學時代の先生だつたからである。不勉強な私はろくに講義にも出ず、一二年生の頃、他の學生から「あの先生は自衞權否認論といふとんでもない少數説を信奉してゐるらしい」と聞いただけで、非現實的で、非論理的でさへあると思ひ込んだ。個人にとつて正當防衞は當然の權利である。それなら國家にとつても、侵掠戰爭はともかく、自衞戰爭を行ふのは當然の權利ではないか。三年生になり、どういふ縁か浦田ゼミに入つた後も、自衞權について深く問ふこともなく過ごした。

憲法による政治の拘束
しかし私の思ひ込みはやはり勉強不足のせゐだつたことが、恥づかしながら最近になつてわかつた。なぜ國家の自衞權は當然の權利でないのか。理由は二つある。第一に國際法上の問題がある。本書で浦田が指摘する(141頁)やうに、現代においては國際法上、自衞權は個人の正當防衞權のやうな自然權(法律で定めるまでもなく、生まれながら有する權利)とはみなされてゐない。あくまでも國際慣習法や國連憲章に基づいて初めて認められる權利と考へられてゐる。これは二度の悲慘な大戰を經て、それまで自衞權が自衞以外の戰爭の口實として利用されたことへの反省からである。それでも國連憲章や日本の防衞省は自衞權を「固有の権利」「固有の自衛権」と表現してゐて、あたかも自然權であるかのやうな誤解を招きかねない。

第二に、より重要なこととして、憲法上の問題がある。そもそも近代における憲法の目的は、國家による勝手氣ままな權力の行使を防ぎ、個人の權利を守ること、すなはち「憲法による政治の拘束」(143頁)である。この考へを立憲主義といふ。だとすれば、國家には憲法に定めがなくても行使できる固有の權利があると想定すること自體、立憲主義に反する。國際法とは別の次元で、國家が自衞權を持つかどうか、持つ場合にどのやうに行使できるかは、個人の權利が不當に侵されないやうに、それぞれの國で「憲法による基礎づけが必要である」(146頁)。

日本の場合はどうか。それは憲法をどう解釋するかによる。浦田立憲主義を徹底する立場から、自衞權を肯定する説を次のやうに批判する。まづ武力行使も認める政府見解は、自衞力は憲法九條で禁止された戰力には當たらないとしてゐるが、「自衞力が戦力でないとするのは、日本酒が酒でないとするに等しい」(144頁)から、立憲主義を完全に否定してをり論外である。

次に武力行使を認めない多數説は、戰爭抛棄といふ憲法上の禁止規定に觸れない範圍で、自衞の理念や目的を實現するための手段を正當化しようとするけれども、「これでは立憲主義の意味は半減してしまう」(146頁)。憲法の禁止に觸れないかぎり、抽象的な目的を實現するためのあらゆる手段が正當化されてしまふからである。海外における自衞隊の「平和維持活動」などはそれであらう。かうして浦田は、戰力の保持を禁じた九條の文言を嚴格に解し、少數説の自衞權否認論をとるのである。

じつは自衞權否認論は、かつては少數説でなかつた。終戰後まもない1940年代の憲法學會では「否認を明言するものを含めて、実質的にそれ〔自衞權〕を否定する見解が強かった」(10頁)。そればかりか政府も同意見だつた。1946年6月、總理の吉田茂は「正当防衛、国家の防衛権に依る戦争を認むると云うことは、偶々戦争を誘発する有害な考へ」(8頁)と述べた。國家の防衞權、つまり自衞權を「有害」として實質否定してゐたのである。

しかし東アジア情勢が緊張し、世界各地で紛爭が激化する現在、憲法九條そのものを見直す必要はないだらうか。浦田は、その必要はないどころか、むしろ九條を擁護せよと説く。なぜなら、國家は戰爭を正當化する理由として國民の生命や財産の保護を掲げるにもかかはらず、「自衛戦争を含めて戦争は、国民の生命や財産を根こそぎ奪うような被害を与える」(41頁)からである(政治哲學者の松元雅和も『平和主義とは何か』で同樣の指摘をしてゐる)。とりわけ軍事技術が飛躍的に發展した今日においてはさうである。灣岸戰爭は核兵器を使用しない通常戰爭だつたが、廣島原爆より多い死者を出した。國連の集團安全保障を含め、「戦争は国際問題の解決能力を失っている」(42頁)。だとすれば、九條によつて政府に戰爭を許さないことこそ、賢明である。

リバタリアンと共鳴
私も浦田に同意する。以前は九條を改正し自衞隊を國軍として認めるべきだと思つてゐたが、今では考へを改めた。それは米國のマレー・ロスバードを中心とするリバタリアンの平和論を知り、その正しさを確信したからである。いま詳しく述べる餘裕はない(參考はこれこれ)ので核心だけいへば、ロスバードらは政府と國民を區別し、戰爭の加害者は政府(權力を握る政治家、官僚)およびそれと結託した一部の國民であり、被害者は政府の勝敗にかかはらず國民(ただし政府と結託した一部を除く)であると正しく指摘する。そして政府の權力を縛り、究極的には政府をなくし、戰爭をできなくすることこそ、國民の安全を高める道だと主張する。これは浦田の考へと共鳴する。

私は浦田の主張すべてに賛同するわけではない。浦田は「個人が企業社会から解放される必要」(120頁)を説くが、政府が福祉政策や解雇規制で雇傭のコストを上げ、轉職しにくい環境をつくらないかぎり、過勞死するほど人をこき使ふ企業からは皆逃げ出し、自然に淘汰される。また浦田は、國家に組織されない國民の軍事活動は能力と技術が足りないとして否定的だが、企業活動の自由が廣がれば、プロの警備會社がその役割を擔ふだらう。企業は人の生命・身體・財産を不當に侵害した場合、賠償責任を負ふので、國家による戰爭のやうな無差別の殺戮や侵掠戰爭は起こさない(警備會社による國防については蔵研也『無政府社会と法の進化』を參照)。誠實で優秀な自衞官の多くは喜んで轉職するに違ひない。

浦田の本を讀んで驚くのは、上記の點を含め、リバタリアンと共通する指摘が多いことである。たとへば浦田は「まえがき」で、自由論の立場から福祉政策への批判が出てゐることに觸れ、「福祉の基礎づけはきちんと議論する必要がある」と認めたうへで、かう問ふ。「しかし、人間の自由から正当化を問題にすべきものが、どうして軍事より福祉なのであろうか。どう考えても、それは福祉より軍事である。…軍事の問題に真正面から立ち向かう自由論なら、それは本物の自由論であろう」。これはロスバードの次の發言とほとんど同義である。「リバタリアンは価格統制や所得税については適切にも怒りをおぼえるのに、大量殺戮という究極の犯罪に対しては肩をすくめるか、あるいは積極的にこれを支持さえするというのだろうか?」(森村進他譯『自由の倫理学勁草書房、25頁)

戰爭を正當化する國家の自衞權などいらない。個人の生命と財産を守る仕事は、政府に任せるにはあまりにも重大すぎる。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)