自國政府から身を守れ

先日書いたやうに、日本國憲法は國家(政府)の自衞權を否定してゐる。このやうに言ふと、「外國の脅威に無防備になつてしまふ」といふ反論が返つてくるだらう。しかしこの反論は二つの事實を見落としてゐる。一つは、憲法が否定するのは國家の自衞權であり、國民の自衞權ではないといふこと。もう一つは、國民にとつては外國政府だけでなく、自國政府も脅威になりうるといふことである。

英文対訳 日本国憲法をよむ (ブックス・プラクシス)
これらの見落としがちな事實を的確に指摘してゐるのは、米國出身で日本在住の政治學者、ダグラス・ラミスである。ラミスは二十年前、『日本国憲法をよむ』(常岡[乗本]せつ子、鶴見俊輔との共著、柏書房、1993)に寄せた論文「日本のラディカルな憲法」(加地永都子譯)で「〔憲法〕第9条は、国家に対し軍事力を確立ないし使用する権利を否定している」(169頁)と述べたうへで、二つの誤解を正してゐる。

まづ、國家の自衞權(ラミスは「国家の軍備とそれを使用する権利」と表現するが、ここでは國家の自衞權と同義とみてよい)を否定したら國民の自衞權を奪ふことになるといふ批判にかう釘を刺す(171頁)。「第9条では国民の自衛権を奪うとは一言もいっていない」。國民が自分を守る權利は「生き物としてのわれわれの肉体的本性そのものに刻み込まれて」おり、「われわれには生きる権利があるというのと同じこと」である。國民の自衞權は「不可侵」であり、憲法によつて奪ふことはできない。

國家の自衞權を奪ふことは國民の自衞權を奪ふことに等しいと思ひこむ人々は、そもそも憲法の役割を忘れてゐる。憲法は「国民の権力〔引用者注=権力でなく権利といふ表現が適切〕ではなく政府の権力を制限するために書かれている。……国民に対する命令ではなく国民による命令なのだ」。一言でいへば、立憲主義である。

多くの人々が、國家と國民を同一視してしまふのも無理はない面はある。ラミスが言ふ(173頁)やうに、「現代は国家の権力がこれまでの歴史のいかなる時代にもまして増大し、日常生活や国民全体の意識に深く浸透してきている」からである。かうした時代には「国家と国民とを別個の実在として考えにくい」。それでも政治について正しく理解するには「両者を区別すること」が必要である。兩者を混同すれば、政府やその代辯者の詭辯に丸めこまれてしまふだらう。

次にラミスは、國民にとつての脅威は外國政府だけだといふ思ひこみを覆す。それは國民の自衞權についてかう述べた部分である。「あるばあいには政府に対する自衛権を意味するだろう」(173頁。強調は原文では傍點)

これは國家と國民を區別することから導かれる自然な結論といへる。國家と國民が同じでなく、「別個の実在」だとすれば、國家が國民の權利を侵害する可能性は否定できない。いやそれどころか、國家は平時から課税(不換紙幣増發による見えない課税を含む)によつて自國民の財産を堂々と奪つてゐる。そんな國家が有事の際だけは自國民の生命や財産を律儀に守つてくれると考へるのは、あまりに樂觀的だらう。

日本で國家が國民の生命を守らなかつた典型は、第二次世界大戰末期の沖繩戰だらう。沖繩は敗戰までの時間を稼ぐ捨石と位置づけられ、學生を含む多數の住民が戰場に動員された。それだけでなく、スパイとみなされた住民や米軍に投降する住民が軍に殺されたり、「集團自決」に追ひ込まれたりした。「集團自決」は軍の直接の強制によるものではないとの主張があるが、背景には陸軍大臣東條英機が示達した戰陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」といふ玉碎思想があり、政府が國民を死に追ひやつた責任は免れない。

吉田敏浩『沖縄――日本で最も戦場に近い場所』(毎日新聞社)によると、終戰直前に少年だつたある住民は、家族ともども日本兵からスパイと疑はれ、撃たれさうになつたところをあやふく助かるが、戰後沖繩各地で住民が日本兵にスパイ容疑で殺されてゐたことを知り、かう理解する。「軍隊は住民を守らない、軍は軍そのものを最優先させる」(同書、209頁)。おそらく軍人の中には、自國民の生命を奪ふことに疑問を感じ、できるかぎりさうした行爲を避けた誠實な人物もゐたことだらう。しかし殘念ながら、政府の命令に從はなければならない以上、かれらは多數派にはなりえないし、事實ならなかつた。

沖繩住民にかぎらず、時間稼ぎの不毛な戰ひに兵士として驅り出され戰死した各地の日本人もまた犠牲者である。かれらを直接殺したのが米軍だとしても、降伏を拒み戰場に國民を送り續けた日本政府の責任は重い。沖繩戰が示すのは、自衞權を國家に獨占させれば、國民は自國政府から身を守れないといふ事實である。

ラミスは、國民が自衞權を行使する方法として、人民戰爭のやうに國民がみづからを直接防衞することも許容するが、一番望ましいのは、日本國民が「世界の平和運動の先頭に立〔つ〕」(175頁)ことだと述べる。しかしもしさうだとすれば、九條擁護派は、同じ本で「企業本位の自由な経済に政府が介入して国民生活の安定をはかるニュー・ディール方式」(195頁)を稱賛した鶴見俊輔のやうな、左翼的經濟觀を正さなければならない。國内外の人々を自發的な取引で結びつける自由經濟は、左翼の誤解と異なり、一般國民が日常的にかかはりつづけることのできる「平和運動」だからである。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

獨裁者リンカーン

スティーヴン・スピルバーグ監督の映畫『リンカーン』は、主演のダニエル・デイ=ルイスをはじめ、好きな役者が何人も出てゐるけれども、觀に行く氣がしない。映畫評で知るかぎり、「奴隸解放の父」こと第十六代アメリカ合衆國大統領エイブラハム・リンカーンをとてつもなく美化してゐるからだ。しかし映畫の宣傳文句や學校で教へこまれる虚像と異なり、リンカーンは自由のために命を賭けたりしなかつた。それどころか、獨裁者さながらに憲法を無視し、市民の自由を踏みにじつたのである。
リンカーン(上) - 大統領選 (中公文庫)
映畫は觀てゐないが、ハーヴァード大教授の歴史家、ドリス・カーンズ・グッドウィンによる原作『リンカーン』(平岡緑譯、中公文庫、全三册)はざつと讀んだ。原作なので當たり前とはいへ、この本もリンカーンをひどく美化してゐる。「序」でグッドウィンは、リンカーンを「率直であるが内面の入り組んだ、如才ないが裏表のない、感じやすいが鉄鋼の意志を持った指導者」(上卷、9頁)と齒の浮くやうな表現で稱へる。當然、本文にもリンカーンに都合の惡いことはほとんど書かれてゐない。それでもところどころに、自由を蹂躙した暴君の實像が垣間見える。

リンカーンが南北戰爭(1861-1865)を始めたのは、世間で信じられてゐる奴隸解放が目的ではなく、南部諸州の聯邦離脱を沮止するためだつたことは以前書いた米國自身が英國から離脱して誕生した國なのだから、南部の離脱を認めないのは自己否定である。戰爭の途中から大義名分に掲げた奴隸解放にしても、米國以外の國では奴隸叛亂の起こつたハイチを除き平和裏に實現されてをり、兩軍合はせて六十萬人超といふ當時としては米國史上空前の戰死者を出す必要などなかつた。これだけでも政治指導者としてリンカーンの罪は重い。

反戰派を投獄
ところがリンカーンはそれ以外にも、戰時であることを理由に、市民から言論、政治活動、人身などの自由を奪つた。リバタリアンの經濟史家トーマス・ディロレンゾによるとリンカーンの共和黨政權が支配する北部諸州では、新聞編輯者・發行人や聖職者を含む何千人もの反戰派市民が投獄された。國務長官ウィリアム・シワードは祕密警察隊を組織し、「背信行爲」の疑ひがあるといふだけで人々を逮捕した。その際、逮捕の理由は告げられず、「犯罪」が實際にあつたかどうか搜査もされず、裁判もされなかつた。グッドウィンの本ではほとんど觸れられない。

有名なのは、民主黨の反戰派議員クレメント・ヴァランディガムが逮捕され叛逆の罪で投獄された一件である。これはさすがにグッドウィンも無視できず、ヴァランディガムに「敗北主義者の煽動家」と不當なレッテルを貼つたうへではあるが、取り上げてゐる。

オハイオ州出身の下院議員ヴァランディガムはかう訴へた。「この戦争は継続されるべきなのか?…否――戦争は一日も、否、一時間たりとも長引かせてはならない」(下卷、20頁。以下すべて下卷)。政府軍の兵士らは深夜、ヴァランディガムの自宅に押し入り、逮捕した。「この事件で、前例のない即決裁判がおこなわれた結果、彼〔ヴァランディガム〕は有罪を宣告され」た(55頁)。當初は禁固刑だつたが、これをリンカーンが「南部連合の境界線内への追放刑に軽減した」(同)と、グッドウィンはさも温情あふれる措置であるかのやうに持ち上げる。政府を批判し、反戰を訴へただけでたちどころに有罪になり、追放されても大したことではないらしい。

しかも「ヴァランディガムは人身保護令状の適用を訴えたが、却下された」(同)。人身保護令状(Habeas Corpus)とは、不當に拘束されて奪はれた身柄の自由を恢復するために裁判所に請求するもので、英米では傳統的に基本的人權として認められてきた。だがリンカーンは開戰直後の1861年4月、同令状の停止を宣言する。リンカーンはヴァランディガム逮捕後、新聞への寄稿で辯明し、合衆國憲法も、内亂ないしは外國からの侵掠があつた場合には人身保護令状の停止を特例として認めてゐると「念押しした」(58頁)。しかし憲法第1條9節)で人身保護令状を停止する權限が認められてゐるのは議會であり、大統領ではない。最高裁判所長官ロジャー・トーニーはその點を意見表明で批判したが、リンカーンはこれを無視した。

非戰鬪員に攻撃
このほかにもリンカーンは、政府を批判する新聞に廢刊を強ひたり、正當な補償なしに私有財産を接收したりした。しかしなんといつても最惡なのは、南部の非戰鬪員への攻撃と財産の破壞・強奪を放置したことである。

當時すでに國際法違反だつたこれらの行爲を推し進めたのは、一部の暴走した兵士ではなく、リンカーンの右腕である北軍の將軍たちだつた。たとへばウィリアム・シャーマンは、アトランタを占據する際、晝夜を分かたず砲撃を繰り返し、家屋や建物をほとんど破壞しつくした。ディロレンゾによると、通りで女性や子供のおびただしい遺體を見た部下が思はず聲を上げると、シャーマンは冷たくかう言ひ放つた。「すばらしい眺め」だ、これで戰爭が早く終はるのだから、と。

シャーマンの行ひで最も惡名高いのは、1864年冬の「海への進軍」である。シャーマンは農作物を燒き、家畜を殺し、物資を消費し、公共施設を破壞する焦土作戰を繰り廣げた。さすがにグッドウィンも、かうした「見境いのない破壊行為」は「南部の所有地と田園地帯を荒廃させ」、「市民一般が蒙った恐ろしい傷痕の記憶は、今でも南部に取り憑いて離れていない」(343-344頁)と記す。ディロレンゾによれば、北軍兵士による強姦も多く記録されてゐる。最も被害を受けたのは、北軍が「解放」するはずの黒人女性だつた。

かうした北軍の所業は、程度の差はあれ以前から續いてをり、リンカーンが知らなかつたとは考へられない。シャーマンは「海への進軍」を始める際、「行軍途中で必要とする兵糧を自ら調達できる」(343頁)、つまり現地で食糧を奪ふと公言してもゐた。しかしリンカーンは、シャーマンが進軍で港町サヴァンナの占據に成功すると、「名誉はすべて貴官のものだ」(同)と手放しで譽め稱へた。

リンカーンに好意的なある歴史家は「もしリンカーンが独裁者だつたとしたら、情け深い独裁者であつたと認めなければならない」と書く。しかしここまで述べたリンカーンの行ひが「情け深い」とは、ブラックユーモアでしかないだらう。リンカーンは日本でも、「人民の人民による人民のための政治」といふ有名な言葉とともに、偉大な政治家といふ誤つた印象が刷り込まれてゐる。憲法と自由を蹂躙し、不必要で野蠻な戰爭を推し進めた「獨裁者」を崇めてはならない。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

自衞權はいらない

自衞權は國家固有の權利であり、獨立國である以上、自衞權を持つのは當たり前だ――。政府はこのやうに主張し、國民の多くもさう信じてゐる。しかし國家が自衞權を持つといふのは、個人の正當防衞權とは異なり、けつして自明の理ではない。とりわけ日本においては、憲法により、國家の自衞權は否定されてゐると考へるべきである。これは日本人にとつて幸ひである。なぜなら國家の自衞權は、守るべきはずの國民の安全をむしろ脅かすからだ。だから自民黨の改正草案のやうに、憲法で國家の自衞權を認めるのは、改惡でしかない。

現代の平和主義と立憲主義
もう二十年近く前に出たものだが、自衞權に關する通念を覆してくれる本がある。憲法學者の浦田一郎による『現代の平和主義と立憲主義』(日本評論社、1995年)である。日本國憲法における自衞權について、代表的な學説は三つに分かれる。(1)自衞權自體は認められてゐるが武力の行使は許されない(武力によらない自衞權論)(2)自衞權は認められてをり武力の行使も許される(武力による自衞權論)(3)自衞權自體が認められてゐない(自衞權否認論)――である。このうち(1)は多數説、(2)は政府見解で學會では少數説、(3)は少數説である。浦田は(3)の自衞權否認論をとる。日本國憲法の下では、國家に自衞權はないといふ見解である。

おそらく多くの人々は、なんと現實離れした考へかと思ふことだらう。私もこの本が出るさらに十年ほど前、さう思つた。といふのも、浦田は大學時代の先生だつたからである。不勉強な私はろくに講義にも出ず、一二年生の頃、他の學生から「あの先生は自衞權否認論といふとんでもない少數説を信奉してゐるらしい」と聞いただけで、非現實的で、非論理的でさへあると思ひ込んだ。個人にとつて正當防衞は當然の權利である。それなら國家にとつても、侵掠戰爭はともかく、自衞戰爭を行ふのは當然の權利ではないか。三年生になり、どういふ縁か浦田ゼミに入つた後も、自衞權について深く問ふこともなく過ごした。

憲法による政治の拘束
しかし私の思ひ込みはやはり勉強不足のせゐだつたことが、恥づかしながら最近になつてわかつた。なぜ國家の自衞權は當然の權利でないのか。理由は二つある。第一に國際法上の問題がある。本書で浦田が指摘する(141頁)やうに、現代においては國際法上、自衞權は個人の正當防衞權のやうな自然權(法律で定めるまでもなく、生まれながら有する權利)とはみなされてゐない。あくまでも國際慣習法や國連憲章に基づいて初めて認められる權利と考へられてゐる。これは二度の悲慘な大戰を經て、それまで自衞權が自衞以外の戰爭の口實として利用されたことへの反省からである。それでも國連憲章や日本の防衞省は自衞權を「固有の権利」「固有の自衛権」と表現してゐて、あたかも自然權であるかのやうな誤解を招きかねない。

第二に、より重要なこととして、憲法上の問題がある。そもそも近代における憲法の目的は、國家による勝手氣ままな權力の行使を防ぎ、個人の權利を守ること、すなはち「憲法による政治の拘束」(143頁)である。この考へを立憲主義といふ。だとすれば、國家には憲法に定めがなくても行使できる固有の權利があると想定すること自體、立憲主義に反する。國際法とは別の次元で、國家が自衞權を持つかどうか、持つ場合にどのやうに行使できるかは、個人の權利が不當に侵されないやうに、それぞれの國で「憲法による基礎づけが必要である」(146頁)。

日本の場合はどうか。それは憲法をどう解釋するかによる。浦田立憲主義を徹底する立場から、自衞權を肯定する説を次のやうに批判する。まづ武力行使も認める政府見解は、自衞力は憲法九條で禁止された戰力には當たらないとしてゐるが、「自衞力が戦力でないとするのは、日本酒が酒でないとするに等しい」(144頁)から、立憲主義を完全に否定してをり論外である。

次に武力行使を認めない多數説は、戰爭抛棄といふ憲法上の禁止規定に觸れない範圍で、自衞の理念や目的を實現するための手段を正當化しようとするけれども、「これでは立憲主義の意味は半減してしまう」(146頁)。憲法の禁止に觸れないかぎり、抽象的な目的を實現するためのあらゆる手段が正當化されてしまふからである。海外における自衞隊の「平和維持活動」などはそれであらう。かうして浦田は、戰力の保持を禁じた九條の文言を嚴格に解し、少數説の自衞權否認論をとるのである。

じつは自衞權否認論は、かつては少數説でなかつた。終戰後まもない1940年代の憲法學會では「否認を明言するものを含めて、実質的にそれ〔自衞權〕を否定する見解が強かった」(10頁)。そればかりか政府も同意見だつた。1946年6月、總理の吉田茂は「正当防衛、国家の防衛権に依る戦争を認むると云うことは、偶々戦争を誘発する有害な考へ」(8頁)と述べた。國家の防衞權、つまり自衞權を「有害」として實質否定してゐたのである。

しかし東アジア情勢が緊張し、世界各地で紛爭が激化する現在、憲法九條そのものを見直す必要はないだらうか。浦田は、その必要はないどころか、むしろ九條を擁護せよと説く。なぜなら、國家は戰爭を正當化する理由として國民の生命や財産の保護を掲げるにもかかはらず、「自衛戦争を含めて戦争は、国民の生命や財産を根こそぎ奪うような被害を与える」(41頁)からである(政治哲學者の松元雅和も『平和主義とは何か』で同樣の指摘をしてゐる)。とりわけ軍事技術が飛躍的に發展した今日においてはさうである。灣岸戰爭は核兵器を使用しない通常戰爭だつたが、廣島原爆より多い死者を出した。國連の集團安全保障を含め、「戦争は国際問題の解決能力を失っている」(42頁)。だとすれば、九條によつて政府に戰爭を許さないことこそ、賢明である。

リバタリアンと共鳴
私も浦田に同意する。以前は九條を改正し自衞隊を國軍として認めるべきだと思つてゐたが、今では考へを改めた。それは米國のマレー・ロスバードを中心とするリバタリアンの平和論を知り、その正しさを確信したからである。いま詳しく述べる餘裕はない(參考はこれこれ)ので核心だけいへば、ロスバードらは政府と國民を區別し、戰爭の加害者は政府(權力を握る政治家、官僚)およびそれと結託した一部の國民であり、被害者は政府の勝敗にかかはらず國民(ただし政府と結託した一部を除く)であると正しく指摘する。そして政府の權力を縛り、究極的には政府をなくし、戰爭をできなくすることこそ、國民の安全を高める道だと主張する。これは浦田の考へと共鳴する。

私は浦田の主張すべてに賛同するわけではない。浦田は「個人が企業社会から解放される必要」(120頁)を説くが、政府が福祉政策や解雇規制で雇傭のコストを上げ、轉職しにくい環境をつくらないかぎり、過勞死するほど人をこき使ふ企業からは皆逃げ出し、自然に淘汰される。また浦田は、國家に組織されない國民の軍事活動は能力と技術が足りないとして否定的だが、企業活動の自由が廣がれば、プロの警備會社がその役割を擔ふだらう。企業は人の生命・身體・財産を不當に侵害した場合、賠償責任を負ふので、國家による戰爭のやうな無差別の殺戮や侵掠戰爭は起こさない(警備會社による國防については蔵研也『無政府社会と法の進化』を參照)。誠實で優秀な自衞官の多くは喜んで轉職するに違ひない。

浦田の本を讀んで驚くのは、上記の點を含め、リバタリアンと共通する指摘が多いことである。たとへば浦田は「まえがき」で、自由論の立場から福祉政策への批判が出てゐることに觸れ、「福祉の基礎づけはきちんと議論する必要がある」と認めたうへで、かう問ふ。「しかし、人間の自由から正当化を問題にすべきものが、どうして軍事より福祉なのであろうか。どう考えても、それは福祉より軍事である。…軍事の問題に真正面から立ち向かう自由論なら、それは本物の自由論であろう」。これはロスバードの次の發言とほとんど同義である。「リバタリアンは価格統制や所得税については適切にも怒りをおぼえるのに、大量殺戮という究極の犯罪に対しては肩をすくめるか、あるいは積極的にこれを支持さえするというのだろうか?」(森村進他譯『自由の倫理学勁草書房、25頁)

戰爭を正當化する國家の自衞權などいらない。個人の生命と財産を守る仕事は、政府に任せるにはあまりにも重大すぎる。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

經濟學者の暴走統計學

統計學は面白い。Σや√といつた記號を見ると頭が痛くなるけれども、具體的データに基づいて人間の直觀を覆すエピソードは樂しい。ベストセラーとなつた西内啓『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)でも、たとへば最近流行のビッグデータに疑問を投げかけ、調査のサンプル數を一萬人から二萬人に増やしても統計の精度は一パーセントも改善しないと意外な指摘をしてゐる。だが他にもつと面白いところがある。著者の意圖には反するかもしれないが、經濟學者の統計の使ひ方がいかに問題をはらんでゐるかを知ることができるのだ。
統計学が最強の学問である
西内は、統計の使ひ方について統計學者と經濟學者を對比してみせる。まづ本家の統計學者といへる疫學者や生物統計家はかうである。

疫学者や生物統計家は、帰納によって一般的法則を導くと言っても、「どうせランダムサンプルなどではないし、誤差だって含まれているし、別の集団でこの回帰係数が丸々一致するかどうかはわからない」と、一般化の部分に関しては比較的謙虚である。あるいは一部の計量経済学者に言わせると「臆病」ですらある。そのため「あくまでこの調査した対象集団においては」という範囲で間違いのない因果推論だけを行な〔う〕。(262頁)

これに對し、ここ數十年で勢力を伸ばした計量經濟學者(經濟分野に統計學を利用する經濟學者)はかうらしい。

計量経済学者にとって、演繹の対象にならないようなモデルは経済学の進歩に資するものではない。だから彼らは疫学者などよりも熱心に、ありとあらゆる手段を用いて当てはまりのよいモデルを作ろうとする。(263頁)

ややわかりにくいが、ここでは歸納と演繹が對比されてゐる。歸納とは個別の事例を集めて一般的な法則を導かうといふやり方、演繹とはある事實や假定に基づいて、論理的推論により結論を導かうといふ方法である。そして統計學は歸納中心の學問、經濟學は演繹中心の學問と西内は見る。しかしここで疑問がわく。もし經濟學が演繹中心の學問なら、歸納的な統計學を取り込むことで何か矛盾が生じないだらうか。

この本ではないが、その矛盾を示すエピソードがある。リバタリアンオーストリア學派經濟學者のウォルター・ブロックがコロンビア大學の學生時代、ノーベル經濟學賞受賞者ゲーリー・ベッカーの指導を受けたときの話である。ベッカーといへばシカゴ學派を代表する一人で、そのシカゴ學派は統計學的手法を多用することで知られる。

さてブロックはあるとき、家賃規制の課題に取り組んだ。政府が家賃の上昇を制限すると賃貸住宅が改修されず劣化したり、新築が減つて供給が不足したりするとされるが、それらの法則が正しいかどうかを統計學的に檢證する作業を行つたのである。たいていの場合、法則は正しいとの結果が得られたが、ときおり、家賃規制で住宅事情が改善するといふ逆の結果になることがあつた。すると指導するベッカーはかう言つたのである。「ブロック、戻つて正しい結果が出るまでやり直したまへ」("Block, go out and do this again until you get it right!" )

これはをかしくないだらうか。もし法則が正しいと最初からわかつてゐるのなら、學生の學問的訓練にすぎないにせよ、わざわざ統計學的に檢證する意味などない。

ほとんど理解されてゐないが、經濟學の法則は自然科學と異なり、個別の事例から歸納的に導かれるものではない。人間は滿足を得るために行動する(たとへば、より多くの家賃收入を得られるならアパートを改築する)といふ明らかな事實から演繹的に導かれる。

演繹的に導かれた法則を、歸納的に「檢證」することはできない。それはまるで、「三角形の内角の和は百八十度である」といふ定理が正しいかどうかを確かめるために、印刷物に描かれた三角形を大量に集め、内角を分度器で測るやうなものだ。

つまり、經濟理論を統計學的に檢證する研究は、無意味といふことになる。そんな馬鹿なと思ふかもしれない。しかしこれは經濟學會の内部ですらささやかれてゐる公然の祕密なのである。ある計量經濟學者は、もちろん異論はあるものの、經濟理論家の側からこんな批判があると率直に認める。「ある定理が理論的に否定されるなら、それは理論上の重要な発展であり、すべての理論家は注目する。しかし、何らかの観測データに基づく計量分析の結果が、経済理論と整合的でないといっても、ほとんどの人は気にも止めない」(森棟公夫『基礎コース 計量経済学新世社、3頁)。さう、ベッカーがブロックの「檢證」結果を突き返したやうにである。

だが責められるべきは、經濟理論を檢證する側だけではない。現代では經濟理論そのものが、本來あるべき演繹法によつてではなく、統計學の手法で導かれた假説にすぎないことが大半だからだ。ひどいケースになると、統計學の最低限のルールすら無視してしまふ。

たとへば嘉悦大教授の高橋洋一は、名目GDP(國内總生産)成長率とプライマリーバランス(基礎的財政收支)對GDP比との間に相關關係があると指摘し、そこからただちに、リフレ政策によつて「名目GDP成長率を上げたら、プライマリーバランスも上がって財政が健全になる」と結論づける(『数学を知らずに経済を語るな!』PHP研究所、48頁)。しかし二つの事象に相關關係があるからといつて因果關係があるとは限らない。これは私ですら知つてゐる統計學のイロハである。

上記の引用で西内は統計學者の態度を「謙虚」と表現したが、それに引き換へ、高橋や類似の主張をする經濟學者・評論家の態度は、もはや傲慢を通り越して暴走である。最近高橋は「相関関係がないから因果関係もない」と逆の誤りを主張し、暴走はやむ氣配がない。統計學を正しく理解する經濟學者は、このやうなときこそ聲を上げ、同業者の暴走に齒止めをかけてほしい。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

金保有批判の愚

橘玲は『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)で、インフレ對策としての金保有について否定的見解を述べる(113-114頁)。内容ごとに分けて引用しよう。

金は鉄や銅などの金属とちがって工業用としてはほとんど用途がなく、地中から掘り出されて退蔵されるだけで、株式や債券のように配当〔引用者注=債券の場合は利子〕がえられるわけでもありません。…(1)

金に価値があるのはひとびとが「金に価値がある」と思っているからで、貨幣と同じでその実体は共同幻想です。この幻想がつづくかぎり価格は上昇するかもしれませんが、ひとびとが王様は裸だと気づけばただの石ころになってしまうでしょう。金投資は純粋なギャンブル(投機)なのです。…(2)

リーマンショックの直後、金価格は50ドル台から25ドル台まで約半分に下落しました。日本の財政が破綻して世界経済が混乱したときに、金価格が同じように下落する可能性は高いと思われます。そう考えると、財政破綻リスクヘッジとして金投資がどの程度有用かは疑問です。…(3)

ポイントをまとめれば、金保有が望ましくない理由は(1)工業用の用途が乏しく配當や利子も生まない(2)價値が共同幻想にすぎない(3)價格下落の可能性が高い――とならう。以下、これらの理由が妥當かどうか檢討しよう。

最初に(1)である。まづ、鐵や銅に比べ金に工業向け用途が少ないのは事實だが、一方で寶飾品や工藝品、美術品向けの用途がある。これらの用途も立派な實需であり、金の價値を支へる。

また、金そのものはたしかに利子を生まないが、それは現金も同じだ。現金も自宅のタンスにしまつてゐるだけでは利子を生まない。現金が利子を生むのは、銀行預金や債劵贖入を通じ、人に貸すことの對價としてである。金も同じやうに、人に貸せばその對價を受けることができる。金取引會社の多くが提供してゐる消費寄託サービスを使へば、貸出を前提に金地金を預けることで寄託料を受け取れる。ある會社ではこの寄託料を「預貯金の利息に相当するものです」と説明してゐるくらゐだ。だから金が利子のやうな對價を生まないといふ主張はをかしい。

次に(2)である。共同幻想とはお金のことを論じる際に好んで使はれる言葉だが、じつはその意味は曖昧である。たとへば、多くの人は砂糖の甘い味を好むから、砂糖には需要があり、それが砂糖の價値を支へてゐる。ここで「砂糖に価値があるのは人々が甘い味を好むからで、共同幻想にすぎません。甘い味が好まれなくなれば、ただの粉になってしまうでしょう」と指摘することは、論理的には正しいかもしれないが、はたしてどれほどの意味があるだらう。

人間は大昔から砂糖の甘さを好んできたのと同じく、大昔から金の美しさを好んできた。その性向が突然なくなると考へる理由はない。もし金が著しく價値を損なふとすれば、化學的發見により大量生産が可能になつたときだらうが、いまのところその可能性はない。一方、政府が發行する不換紙幣はいつでも大量生産が可能だから、價値が損なはれる恐れは金よりはるかに大きい。だから金を不換紙幣と同列に扱ひ、共同幻想のレッテルを貼るのはをかしい。

そして(3)である。金の價格が大きく變動することがあるのは事實だ。しかしそれは金に限らない。橘が推奬する外貨預金も、FX(外國爲替證據金取引)も、國債ベアファンドも、株價指數オプションも、金と同等かそれ以上に價格變動が大きい。橘はこれらの金融商品を使つて、非常時に「大博打」を張ることを勸めてゐるのだから、金だけを「純粋なギャンブル」と批判するのはまつたくの自己矛盾である。

また橘が勸めるさまざまな金融商品と違ひ、金はその價値が紙切れ同然になることはない。金を好む人間の性向は變はらないだらうし、お金としても使はれた實績があるからだ。その意味でも、金保有は「純粋なギャンブル」などではない。

以上、金保有に對する橘の見解が誤りであることを示した。議論を一歩進めれば、金は橘が舉げた一連の金融商品に比べ、資産防衞の手段としてずつと優れてゐる。なぜなら政府による介入の手が及びにくいからである。

もちろん金の防禦は完璧ではない。大恐慌期の1933年、米國大統領フランクリン・ローズヴェルトは國民が私有する金を強制的に沒收した。日本も經濟危機が深刻になれば、政府がそのやうな暴舉に出ない保證はない。

しかし一方で、金ならではの強みがある。銀行口座や證劵口座は一瞬で封鎖されうるが、金は現金と同じく、手元に置いておけば、政府も簡單に奪ふことができない。沒收を命じられても、法律違反の覺悟を決めれば、うまくすればそしらぬ顏で隱し持つことができる。

しかも金は現金より優れてゐることがある。すでに述べたやうに、政府はいくらでも紙幣を刷ることができるが、金を量産することはできない。現金をどれだけうまく隱し持つても、政府が紙幣を大量に刷れば、その價値はなすすべもなく失はれてゆく。金にはその恐れがない。政府は暴力によつて個人から金を奪ふことはできても、公認の贋金づくりによつて金の價値を奪ふことはできないのだ。
ドルの崩壊と資産の運用―通貨制度の崩壊がもたらすもの
國家破産といふ極限状況において、國家はみづからの延命のため、あらゆる手段で個人の財産を奪はうとするだらう。そのとき頼りになるのが、國家の支配下にある紙幣や金融商品なのか、それとも國家が介入できない價値を持つ金なのか、答へは言ふまでもない。金を資産防衞の選擇肢から排除するのは愚かなことである。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

國家頼みで資産は守れない

街を歩いてゐるとき、逃走中の強盜犯が兇器を手に現れたら、どうすればよいか。もちろん、できるかぎり遠くへ逃げなければならない。身を守りたければ、間違つても強盜犯に近づいてはいけない。資産を守る場合も同じである。個人の資産にとつて最大の脅威は、それを奪はうとつねにうかがふ國家である。資産を守りたければ、できるだけ國家の目を避け、遠ざかるにしくはない。ましてや破産の危機に瀕し、延命に必死の國家に近寄るのは、自殺行爲である。ところが作家の橘玲は最新作『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)で、その自殺行爲を讀者に勸めてゐる。
日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル
橘は巨額の公的債務を抱へる日本について「国家が無限に借金することはできないのですから…このままでは危機はいずれ現実化するでしょう」(45頁)とみる。その診斷は正しい。續けて橘は「その影響が計り知れないものである以上、私たちは個人としてそのリスクに備えなければなりません」(同)と述べる。その方針も正しい。問題は、具體的な處方箋が間違つてゐることである。

橘は「財政破綻に備える金融商品」として三つを舉げる。國債ベアファンド外貨預金、物價連動國債ファンドである。しかしこのいづれも、資産防衞の手段としては問題をはらむ。

まづ外貨預金についてである。外貨そのものは、紙幣をやたらと刷らない健全な金融政策を行なふ國の通貨なら、日本圓の價値が失はれる場合の備へとして、保有しておいてよいだらう。ところが橘が第一に勸める通貨は、よりによつて、米ドルである(106頁)。爲替コストの安さが理由といふが、米國といへば、日本以上に紙幣を刷りまくり、財政危機が叫ばれる國家である。もし米國が日本より早く財政破綻に近づけば、米ドルは對圓で下落し、ドル預金は元本割れするだらう。そもそも米ドルにかぎらず、外貨預金は銀行の信用リスクや、後述する課税などのリスクがつきまとふ。危機の備へとして外貨を持つなら、現金で手元に置くべきである。

次に國債ベアファンドは、國債價格が下落(國債利囘りが上昇)すると利益を生むやうに商品設計された投資信託である。これも資産防衞の手段としては心もとない。商品の仕組み上、「超低金利が長期に継続する場合は、10年で投資資金は半分から3分の1になってしま」(131頁)ふのは保險の代償として目をつぶるにしても、「ファンド設定以来、国債価格が大きく下落(金利が高騰)したことがいちどもない」(154頁)ため、財政破綻時に得られるはずの大きな利益は「あくまで計算上のもので、実際にそうなるかどうかは誰にもわかりません」(同)といふのは困る。

三番目の物價連動國債ファンドは、消費者物價指數の上下に應じて元本が増減する物價連動國債を組み込んだ投資信託で、インフレ(物價上昇)による生活コストの上昇に保險をかけることができると橘は言ふ。しかし現在政府が算出する消費者物價指數は、天候に左右されて變動が大きいといふ奇妙な理由で、市民の日常生活に缺かせない生鮮食品が除かれてゐる。これでは生活コストの上昇を十分にカバーできない。しかも實際に大幅なインフレが起これば、元本償還の負擔を減らすため、「變動が大きい」他の品目(たとへば生鮮食品以外の食料やエネルギー)がさらに指數から外される恐れもある。

なほ橘は、現在新規發行が停止されてゐる物價連動國債について「早期の発行再開を望みたい」(112頁)と書いてゐるが、大量の國債發行が招く國家破産から資産を守る手段として、さらなる國債發行を要望するとは、自分で自分の首を絞める行爲だらう。

しかも以上の金融商品に共通するのは、政府の課税や強權にきはめてもろいことである。橘自身認めるやうに、金融所得への課税が強化されれば想定してゐたヘッジ(保險)は效かなくなるし、「物価連動国債でインフレリスクをヘッジしていても、国債自体の元金の償還が反故にされてしまえばなんの意味もありません。国債ベアファンド外貨預金から大きな利益を得ていたとしても、預金封鎖があれば資産はすべて没収されてしまいます」(118頁)。當然だらう。國債は國家自身が設計・發行するものだし、銀行は規制や天下りで實質政府の支配下にある。

にもかかはらず橘は、いよいよ國家破産が現實のものになつたら、今度は株の暴落で儲けよと勸める。具體的には株の信用取引による空賣り、日本株ベアファンド(ベアETF=上場投資信託)の贖入、株價指數先物の賣り、株價指數オプションのプット(賣る權利)の買ひである。國家破産のほか、大地震、テロ攻撃、戰爭や内亂が起こり、會社が倒産し、住む場所を失ひ、海外に脱出しなければならないやうな極限状況で、貯金が500萬圓あり、そのうち100萬圓を自由に使へるとしたら、それで「一世一代の大博打を張るのです」(204頁)。

死ぬか生きるかの非常時に、貴重な貯への一部を「大博打」に投じるといふ無謀な行爲を煽るとは無責任きはまるが、それ以前に問題なのは、株やETF、株價指數先物、同オプションなどが上場する證劵取引所や株券・現金を預かる證券會社もまた政府の強い影響下にある事實に、橘が無頓着なことだ。經濟危機を利用して暴利をむさぼる投機筋はけしからんとして、取引が規制されたり、利益を差し押さへられたりする恐れは十分ある。そもそもそんな極限状況で、決濟がうまくできるかどうかも怪しいものだ。

國家公認の金融商品をいそいそと贖入したり、國家公認の賭場でひと儲けをもくろんだりするのは、國家を利用してゐるやうに見えて、結局のところ國家頼みである。平時利用するのはやむをえなくても、國家破産の瀬戸際でそんなことをやるのは、大切な肉を背負つて、飢ゑた虎の前に出向くやうなものだ。資産防衞の賢い手段とはいへない。正しい手段は、橘が否定したものの中にある。長くなるので續きは次週。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

平和主義を手放すな

平和主義といへば、日本國憲法の基本原則にも掲げられる考へ方だが、最近すこぶる評判が惡い。東アジアの國際情勢が緊張する中で、現實味のないユートピア主義にすぎないとの見方が、智識人だけでなく、一般の人々の間でも強まつてゐる。しかし平和主義は、時代遲れの捨て去るべき思想ではない。人々から支持され、説得力もある國際關係の指針となりうる。
平和主義とは何か - 政治哲学で考える戦争と平和 (中公新書)
それを理解するために、最近出版された松元雅和『平和主義とは何か――政治哲学で考える戦争と平和』(中公新書)が役立つ。政治哲學者である松元は、平和主義(暴力ではなく非暴力によつて問題解決をはからうとする姿勢)へのさまざまな批判を取り上げ、それらがじつは論理の飛躍や誤解に基づくことを、明晰な文章で指摘してゆく。とくに興味深い論點を四つ紹介しよう。最初の三つは、「戰爭は殺人だから、個人の殺人と同じく許されない」といふ義務論に基づく平和主義にかかはる。

第一に、「愛する人が襲われたら」といふ批判である。これは平和主義者に「家族や恋人が目の前で暴漢によって襲われようとしている場合でも、はたしてその信念を貫くことができるのか」と問ひつめ、暴力を容認させることで、平和主義が一貫性のない現實離れした理想にすぎないと印象づけようとする。

これに對し松元は、一部の絶對平和主義者を除き、平和主義者は正當防衞の暴力まで否定するわけではないと述べたうへで、上記の批判では、家族や戀人がかかはる私的場面と、國家がかかはる公的場面が「(故意に)混同されている」(23頁)と指摘する。現實には「一方で、私的レベルでの暴力抵抗では、目的と手段、理由と結果が明瞭に連結している。他方で、公的レベルの暴力はそうではない。軍隊に参加したからといって、自分の家族や恋人を守るために働くわけではない」(24頁)。したがつて、家族や戀人を力ずくで守ると答へたからといつて、ただちに戰爭をも容認するべき理由にはならない。

第二に、敵國兵士の殺害である。ある國が他國を侵掠しても、侵掠された國は侵掠國の個々の民間人を攻撃することは許されない、と平和主義者は主張する。なぜなら個々の民間人は、侵掠國の開戰の決定に關して責任をほとんど直接的には負つてゐないからだ。ここで非平和主義者が述べる。よし民間人は分かつた。しかし侵掠國の個々の兵士は民間人と異なり、侵掠の手先になつてゐる。だからたとへ侵掠國兵士を殺害したとしても、それは免責されるのではないか、と。

これに對し松元は、次のやうに述べる(60-63頁)。個々の兵士が侵掠といふ決定に關與した責任は、民間人よりも大きいわけではない。徴集により、自分の意思に反して嫌々ながら侵掠戰爭に參加してゐるのかもしれないし、政府の巧みな情報操作により、侵掠戰爭を自衞戰爭だと思ひ込んでゐるのかもしれない。たとへ侵掠政策に賛成し、自發的に軍隊に加はつてゐたとしても、民間人と同樣、政府の政策決定からは十分に遠い、と。したがつて、平和主義者が、民間人のみならず個々の兵士への攻撃も許されないと主張するとき、それは筋が通つてゐるのである。

第三に、自衞戰爭は正しい戰爭かといふ問題である。そんなことは自明だと多くの人は思ふだらう。しかし政府が、國民が被るいかなる人的・物的被害も省みず、侵掠國に對する自衞戰爭を強行するとなれば、話は別だと松元は指摘する。

一國家の設立目的が國民の權利の保障にあるとしたら、「その国の政府が、自国の領土と主権を遮二無二守るために国民の犠牲を要求することは、当初の設立目的と根本的に矛盾している」(115頁)。自國政府から「全滅してでも戰へ」と強ひられた場合、國民は考慮の末、自衞戰爭よりも降伏を望むかもしれないし、それは正當な選擇である。だとすれば、自衞戰爭がつねに正しいとは限らない。

以上の議論で、平和主義が、政府と國民を明確に區別してゐることがわかる。兩者を混同する國家主義的議論よりも、はるかに論理的だといへる。

しかしそれでもなほ、第四の論點として、こんな主張がありうるだらう。現實の國際關係においては、戰爭に踏み切ることが賢明といへる場合がありはしないか。敵國は邪惡な意志をもち、侵掠の意図は明白であり、外交交渉の餘地は薄く、逆に開戰すれば勝利の見込みは高い。そんな場合なら、戰爭は最善の手段になりうるのではないか、と。これは、人を殺してはならないといふ倫理觀に訴へる義務論的平和主義に對し、國際紛爭の解決手段として戰爭が實現しうる便益の大きさを強調する行き方である。

だがこれに對しても、今度は戰爭の損得勘定に基づく歸結論から、平和主義は反論を用意してゐると松元は言ふ。短期的にはともかく、「中長期的な帰結を予測すれば、その場合の開戦が賢明かどうかは、依然として定かではない」(81頁)。むしろあらゆる戰爭は、次の戰爭の遠因となりうる。たとへば、英國の小説家H・G・ウェルズが「戦争を終わらせるための戦争」と呼んだ第一次世界大戰は、第二次世界大戰の遠因となり、第二次世界大戰は中東戰爭の遠因となり、中東戰爭はイラン・イラク戰爭の遠因となり、イラン・イラク戰爭は灣岸戰爭の遠因となつた。

ここで思ひ起こされるのは、ジャーナリスト、ヘンリー・ハズリットの經濟學に關する言葉である。「経済学とは、政策の短期的影響だけでなく長期的影響を考え、また、一つの集団だけでなくすべての集団への影響を考える学問である」。しかし優れた經濟學者と違ひ、政治家は戰爭の長期的影響をしばしば讀み誤るか、そもそも自分の任期を超える長期的影響について考へようとしない。

だとすれば、「國權の發動たる戰爭」(日本國憲法第9條)を許さない平和主義は、國際關係の指針として、今なお「魅力的な選択肢のひとつ」(224頁)と言はねばならない。松元はそれ以上踏み込んでゐないが、國防は政府に任せず、民間で(非暴力的抵抗を含め)行ふのが、正しく賢明なあり方なのだ。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)