山形浩生氏に答える
ケインズ『お金の改革論』(講談社学術文庫)へのアマゾンレビューに、訳者の山形浩生さんよりコメントを頂きました。それに対する反論コメントを投稿しましたので、こちらにも掲載します。
訳者ご自身からコメントを頂けるとは光栄です。ありがとうございます。
専門家の山形さんに初歩的なことを申し上げるのは気がひけるのですが、私企業とは、市場での製品価格を「安定」させるために生産を増減させるわけではありません。利潤を出すためにやるのです。自動車メーカーを例にとれば、いくら中古車市場で車の値段が上がっているからといって、「年2%の値下がりに転じるまで車を造りまくります」などと宣言して増産に踏み切る愚かな経営者はいません。車の値上がりが続いていても、たとえばそれ以上に原材料や賃金、土地などのコストが上昇し、儲けを出せなくなれば、その手前で増産にブレーキをかけます。
ところが中央銀行の場合、まさに物価を「安定」させるのが目的であり、私企業とは根本的に異なります。そもそも利潤という概念がありませんから、損益を目安にお金の供給にブレーキをかけることは、やりたくてもやれません。できるのは、中古車相場だけを見て生産量を決める愚かな自動車メーカーと同じく、物価指数を目安にお金の生産を増減させることだけです。しかもその物価指数たるや経済実態を適切に反映しているかどうかかなりあやしい代物ですから、あてずっぽうさ加減は愚かなメーカー以下といえるでしょう。このように事実上ほとんどやみくもな供給は、経済の調和を乱します。(なお身も蓋もない話になりますが、お金とは交換の媒体としてのみ使われ、消費されない特殊な財ですから、値段が相対的に上がったからといって供給を増やす必要はそもそもありません)
政府を私企業と同一視し、政府でも同様の供給ができるはずだ、供給していいはずだ、それを否定するのは「ある種の歪曲」だとおっしゃる山形さんの議論は、失礼ながら生産手段の私有を前提とする資本主義の本質を見失っていると言わざるをえません。生産手段を国有しても資本主義と同等の、いやそれ以上の結果が得られるはずだと考えるのは、ケインズがそうだったように、社会主義者です。
レビューが必ずしも本書の内容全般に触れたものでないのはご勘弁ください。しかしつまるところ、本書の核心は「物価安定」の四文字です。長文にも限度がありますから、あちこちつまみ食いするよりも、本の核心に絞って是非を論じるほうが、読者のためになるはずです。
小林よしのり氏に答える
『保守も知らない靖国神社』(ベスト新書)のアマゾンレビューに対し、著者の小林よしのりさんがニコニコチャンネルのブロマガで反論を書いてくださいました。感謝いたします。以下、それに対する再反論を書きます。
小林氏は次のように反論する。
わしは「国家が間違った戦争に国民を駆り立てる可能性」があることは当然の前提にした上で、靖国神社とは「日本を戦争できる国にするための神社」であり、その本質を守らねばならないと主張しているのだが、おそらくその考えはこの人〔=木村〕には到底理解できないであろう。
この文章は、政治家や保守派論客を「靖国神社とは何かを知らない」と批判する小林氏自身が、靖国の本質をまったく理解していないことを示している。なぜなら靖国神社とはその本質上、国家が間違った戦争を行うことを「当然の前提」にするなど、けっしてできない存在だからである。
靖国神社のホームページにはこう書かれている。「靖国神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、『祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊』であるという一点において共通しているのです」。どこをどう探しても、「このうち**戦争は対外侵略を目的とする間違った戦争でしたが、亡くなった方々については差別することなく祀っています」などという記述はない。当然だろう。靖国神社は国家の戦争を正当化するための神社なのだから、間違った戦争もあるという事実を認められるわけがない。
小林氏は「イラク戦争を支持したことを総括しようともしない日本が集団的自衛権行使を容認してしまったことで、今後、自衛隊が米軍の『間違った戦争』につきあって一緒に戦う事態がやってくることは十分ありうる」と述べる。ところがその一方で、間違った戦争で自衛隊に戦死者が出た場合であっても、靖国神社に「合祀すべきである。合祀しなければならない」と書く。
それではもし、集団的自衛権行使で日本がイラク戦争のような間違った戦争に加担し、自衛隊員が戦死したとする。靖国神社がこの自衛官を祀るとしたら、当然、正しい戦争で死んだと説明するだろう。小林氏はそれを許すのか。
もし許さないとしたら、小林氏は靖国神社にこう要求しなければならない。「**戦争は間違った戦争だったとホームページに明記せよ」と。しかし靖国神社は絶対に認めないだろう。そんなことは靖国の建前上できないし、かりに認めれば、日清・日露戦争や大東亜戦争(アジア太平洋戦争)など他の戦争についても同様の記載を求める声が歴史学者や平和運動家を中心に強まるのは確実だからだ。
だから現実には小林氏は合祀に際し、靖国神社が「あれは正しい戦争だった」と喧伝するのを許し、黙認しなければならないだろう。それは自分の良心に頬かむりし、将来にわたり若者がベトナム戦争やイラク戦争のような間違った戦争に駆り出されることに手を貸すに等しい。言論人として恥ずべき行為である。ようするに、小林氏が自分だって間違った戦争の存在くらい認識しているとどれだけ声高に語ろうと、靖国神社のあり方を肯定するかぎり、その認識とやらは何の意味も持たないのである。
ところで私は、小林氏が自分は間違った戦争の存在を認識していると堂々と主張するとは夢にも思わなかった。日本が帝国主義への道を歩みはじめた日清・日露戦争は「日本の国を守るために行わざるを得なかった戦争」(30頁)とされているし、シナを侵略し東南アジアの資源獲得を目指した大東亜戦争(アジア太平洋戦争)は「自存自衛の戦争」「アジア解放の戦争」(36、39頁)とされているからだ。
その代わり、小林氏が間違った戦争の例に挙げたのは、ベトナム戦争やイラク戦争である。だがそれらは所詮アメリカの戦争である。結局のところ小林氏は心の底では、日本はアメリカの間違った戦争に巻き込まれることはあっても、日本が主体となって間違った戦争を行う可能性はないと考えているのではないか。私はこの疑いを拭い去ることができない。
今後の活動
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國家主義といふ宗教
個人と國家の關係について、大きく二つの考へがある。個人が目的で國家はその手段とみなす個人主義と、國家が目的で個人はその手段とみなす國家主義である。人間の歴史は、この二つの思想のせめぎ合ひだつたといつてよい。國家主義は人間の古くからの素朴な感情に根づく一種の宗教であり、それだけに人の心を強くとらへる。國家によつて個人の自由や生命・財産が奪はれるのを避けたければ、個人主義を學び廣めなければならない。
およそ百年前、明治末期の日本では國家主義が急速に勢ひを増してゐた。對外的には日清戰爭(1894-95)、日露戰爭(1904-05)に勝利して軍事的な膨脹主義を強め、韓國併合(1910)に踏み切つた。對内的には明治天皇の暗殺を企てたとして幸徳秋水ら社會主義者・無政府主義者二十四名に死刑判決が下される大逆事件(1910-11)が起こるなど、反國家的な思想・言論が彈壓され始めた。さうした傾向に警鐘を鳴らした智識人の一人が、マルクス主義經濟學者の河上肇である。
明治四十四年(1911)、三十二歳の京都帝國大學助教授だつた河上は「日本獨特の國家主義」(『河上肇評論集』所收。杉原四郎編、岩波文庫、1987)と題する評論を雜誌に發表し、超國家主義が登場する1930年代を見通すかのやうに、日本人にとつて國家は神であり、國家主義は宗教であると喝破した。
日本人の眼中腦中心中最も高貴なるものは國家を措(お)いて他あらず。故に日本人は國家のために何事何物をも犠牲とすといへども、何事何物のためにも國家を犠牲とするを肯(がへ)んぜず。國家は彼らがあらゆる犠牲を供する唯一神にて、彼らは國家を犠牲とすべき他の神あることを夢想だにもするあたはず。彼らにとりて最上最高最大の權威を有する者は國家にして、國家以上に權威を有する者あるべしとは彼らの決して想像しあたはざる所なり。(40頁。文庫版の新字・新かなを變更)
河上は日本と西洋を對比し、日本人の主義は國家主義であり、西洋人の主義は個人主義であると論じる。しかしかならずしもさうとはいへない。西洋に個人主義の傳統があるのはたしかだが、同時にそれを抑壓する國家主義も存在するからだ。
西洋の國家主義は、古くは古代ギリシャやローマにさかのぼるが、近代でそれを典型的に示したのはドイツの哲學者ヘーゲルだらう。ヘーゲルはかう書いてゐる。「国家は地上に実在する神的理念である。……それゆえ国家は地上における神的なものの顕現として崇拝されねばなら〔ない〕」(カール・ポパー『開かれた社会とその敵』第二部、小笠原・内田譯、未來社、36-37頁より再引用)。國家を神として崇める思想は日本特有のものではない。
現在の世界では、米國が海外で軍事介入を擴大して歐州や日本が追隨を迫られ、各國内では政府による經濟干渉や情報統制が強まるなど、國家主義が再び猖獗をきはめようとしてゐる。これに齒止めをかけるには、個人主義の思想を學ぶ必要がある。具體的には何から學べばよいだらうか。河上の文章を手がかりに、三つの候補を檢討しよう。
一番目は、キリスト教である。西洋においてキリスト教は國家主義に對抗する強力な個人主義の原理を提供してきた。河上は書く。「キリスト教は個人主義をその最大特色となす。……神と國と相衝突する時、國を棄てて神に殉ずるが眞のキリスト教徒たらん」(62頁)。歴史家エルンスト・カントロヴィッチも、ヨーロッパ中世においてキリスト教が殉死の思想に及ぼした影響をかう説明する。「現世における祖国のための死は、霊的な『祖国』である天上のエルサレムのための死と比べれば、あるいは殉教者、証聖者、聖なる処女といつた人々が範例的に示す真の自己犠牲に比べれば、倫理的にほとんど意味をもたないものであった」(高橋哲哉『国家と犠牲』NHKブックス、167頁より再引用)
キリスト教は宗教であり、その教へを眞の意味で實踐するには入信しなければならないだらう。だが入信しなくても、個人主義の考へ方は智識として十分學ぶことができると、キリスト教徒でない私は思ふ。ただし西洋でも日本でも、キリスト教(やその他の宗教)が國家と結びついて個人を抑壓した時代もあることは注意しなければならない。
二番目は、社會主義である。河上はマルクス主義經濟學者らしく、社會主義を個人主義の精神にもとづくものとして擁護する。「〔社會主義が〕土地資本を公有にし一切産業を公營とすべしといふは、その事が國家のために必要なるが故にあらずして、全く各個人のために必要なるが故にほかならず。……個人主義がたまたまその目的を實現するの手段としてしばらく國家主義に類似したるの主張を敢てするに至りたるのみ」(48頁)。だがかりに社會主義が個人主義の精神に發するものだとしても、結果的に個人の自由を抑壓してきたことは事實であり、これを個人主義の思想だと擁護するのは無理がある。
マルクス主義は理論上は、國家の廢絶を究極の理想としてゐる。その意味では、經濟介入の主體として國家の存續を大前提とみなすケインズ主義經濟學と異なり、國家主義批判の思想として評價すべき側面はある。だが「國家主義に類似したるの主張」を「しばらく」認め、結果的に永續的な國家主義をもたらすやうでは、個人主義の思想として不適格といはざるをえない。
三番目は、無政府主義である。これは文字どほり、政府(國家)をなくさうと考へるのだから、國家主義に正面から反對する思想だ。日本人の大半が國家主義といふ宗教を信じてゐるとしたら、受け容れがたいものだらう。河上もかう書く。「日本において最も恐れらるる所のものはかのいはゆる無政府主義なり」(46-47頁)。もちろん河上の腦裏には、大逆事件による無政府主義の事實上の彈壓があつただらう。
日本で無政府主義者が恐れられ憎まれるのは、彼らが暴力的な手段に訴へるからではない。河上も觸れてゐるやうに、無政府主義者には米國のベンジャミン・タッカーのやうに、演説と著述といふ平和的手段をつらぬく者もゐるし、現代の無政府資本主義者(アナルコ・キャピタリスト)もさうである。無政府主義者が憎まれる眞の理由は「これ〔無政府主義者〕を以て強盜殺人狂者の類(たぐひ)と同視するがためにはあらずして、その主義が日本民族の最高の信仰たる國家至上主義に絶對正面の反對をなすがためにほかならず」(47頁)
私自身は、現代において國家主義に對抗しうる最も有效な思想は、平和な手段による無政府主義(より正確には無政府資本主義)だと考へる。その根據はこれまで書いてきたことに加へ、さらに詳しく述べる必要があるけれども、いまは時間がない。ここでは、無政府主義は過激だといふ理由だけで顔をしかめる人に、米國獨立革命といふ「過激」な行爲に貢獻した思想家トーマス・ペインの言葉を二つ紹介して終はりにしたい。「政府は最高の状況でも必要惡にすぎず、最惡の状況では耐へがたいものである」「中庸のとれた氣質はつねに美徳である。しかし中庸のとれた信念はつねに惡徳である」
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讀者の皆さまへ
「ラディカルな經濟學」をお讀みいただきありがたうございます。
これまで私はこのブログと竝行し、インターネット以外の場所で發表すべく、長い文章を少しづつ書き溜めてきました。最近執筆が峠にさしかかり、より多くの時間を割きたいとの思ひが強くなりました。また、それ以外にも、まとまつた分量の文章で書きたいテーマがいろいろと控へてゐます。
そこで執筆時間を確保するため、突然ではありますが、思ひきつてブログの更新を無期限休止することにしました。明日(十月十三日)の記事が最後の投稿となります。
毎週樂しみに讀んでくださつてゐた皆さまにはたいへん申し譯なく思ひます。ただしツイッターでの情報發信はつづけますし、書評も少しコンパクトにして、アマゾンのレビューの形で書きつづける(當面はブログの舊稿のリライトが中心となります)つもりです。インターネットと縁を切るわけではありませんので、よろしければおつき合ひください。
目下取り組んでゐる文章の發表も、早く實現できればと考へてゐます。まだ確定した話があるわけではありませんが、氣に留めておいていただけると幸ひです。「ラディカルな經濟學」への應援、ありがたうございました。これからもどうぞよろしくお願ひいたします。(自由の騎士こと木村貴)