山よ、國家主義と鬪へ

反市場の風潮と鬪ふべくこのブログを始めたわけだが、早くも最強の敵が現れた。なにしろ相手は人間ではない。山だ。いや、相撲取りではない。本物の山だ。日本中の山が私のやうな市場原理主義者を目の敵にして鬪ひを挑んでゐるらしいのだ。

いくら騎士を名乘つてゐても、相手が山では勝ち目がない。いきなり物陰から山に襲ひかかられたらと思ふと、怖くておちおち道も歩けない。幸ひ、まだ實際に襲はれたことはないのだが、用心のため、現状について解説した本を入手した。 安田喜憲山は市場原理主義と闘っている』(東洋経済新報社、2009年)だ。

山は市場原理主義と闘っている

それでは讀んでみよう。一體なぜ、山はそれほど市場原理主義を憎んでゐるのか。著者の安田氏は、アメリカの市場原理主義に日本が追隨した結果、「日本のすばらしい伝統的な社会や文化、道徳的倫理観」が切り捨てられてきたと糺彈する。そして手始めに次のやうに指摘する。

その典型が市町村合併である。歴史と伝統そして風土を体現する美しい地名を廃止し、思いつきの地名に変えて市町村合併を断行した。それは合併すれば補助金がもらえるという、欲にかられた行動だった。目先の補助金の獲得のために、先祖が大切に守ってきた地名をこともなげに廃棄した。(15頁)

あれ? これは市場原理主義とは關係ないよ。だつて金に目がくらんで市町村合併を斷行したのは企業ではなくて、地方自治體なんだから。しかも自治體を慾で釣るために補助金をばらまいたのは政府だ。何かの間違ひだな、これは。他を見よう。

かつての林野庁も金儲けのために禁を破ったことがある。それはかつての林野庁がおかした大きな過ちであった。伝統的な森の文化を切り捨て、ドイツの一斉皆伐造林の手法を取り入れ、ブナの森を破壊して金になるスギの木を植えた。それはひとえにスギがカネになるという、まさに現在の市場原理主義に浮かれた世相を林野行政に導入したために引き起こされた。その結果が現在の林野の荒廃と花粉症の頻発である。(24-25頁)

まただ。後先のことを考へずに目先の金儲けに走つたのは、企業ではなくて、林野廳。役所のやつたことがどうして市場原理主義になるの。

巨大なダムによって下流の水量は減少し、洪水を防ぐための堤防によって、人々と川の関係は遮断されてしまった。(49頁)

巨大なダムを造つたのは誰? なんで政府がやつたことがすべて市場原理主義になつてしまふんだ。

この美しい水の世界、森里海の水の循環系の世界を維持してきた日本の水利共同体を、封建的、非人道的という名のもとに、歴史の闇のかなたに葬り去ったのは、戦後日本の民主主義の名の下における学校教育、とりわけ歴史教育だった。(52頁)

頭が痛くなつてきた。戰後の學校教育の方針を決めたのは? 文部省!

市場原理主義のもと、日本の美しい林野を手にした外国人は、大地や森に愛着のない「棚民」と同じである。彼らは手持ちの森林を金に替えようとする。そして森林の経済価値を利用し尽くしたあとは放棄する。(23頁)

どんな實例に基づいて書いてゐるのか知らないが、森林だらうと住宅だらうと車だらうと、他人に高く賣りたければ、きちんと手入れをしておかなければならない。經濟價値の利用し盡くされた森林なんて誰も買はない。賣ることは抛棄ではないし、本當に抛棄したら金なんか入つてこない。この著者は市場のことなんか何も知らないくせに、市場を非難してゐる。

結局、この本で指彈されてゐる市場原理主義者の惡行といふのは、どれもこれも實は政府の仕業であることが分かつた。とんだ濡れ衣だ。こんなことで山から襲はれては堪らない。

おーい、山よ。お前の敵は市場原理主義ぢやない。日本の自然・社會・文化・道徳を破壞してきたのは政府だ。鬪ふべき相手は、政府と、政府を崇める國家主義者どもなんだ。

おや、この本の著者は國營放送の經營委員を務めてゐて、委員會の會議でこんなことを言つたらしい。「今の若者に徴兵制はだめとしても、徴農制とか、徴林制とか漁村に行けとか、そういう法律で、テレビの番組も何時から何時まできちんと見るということにすればいいと思います」「この番組を見なければ会社に就職させないとか、抜本的に政策を変えないと」。とんでもない國家主義者だな。あれ、なんだか山鳴りが……。

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