保護主義の罠

自由貿易の罠』(青土社、2009年)の著者、中野剛志は經濟産業省職員だが、政府による貿易の制限、すなはち保護主義の強化を主張した同書の「あとがき」でかう強調してゐる。

筆者は、自分が大学教授であろうと、新聞記者であろうと、あるいはダンサーであろうと、本書に書かれたような主張をするつもりである。したがって、「官僚が権限を拡大したくて、政府の能力強化を唱えているのだ」などという偏見に基づく批判はアンフェアであり、絶対に受け入れられない。(225-226頁)

保護主義を主張するダンサーがもしゐれば一度、居酒屋で(舞臺の上では多分迷惑だらうから)じつくり語り合つてみたいし、保護主義を喧傳する新聞や大學教授の本は讀まなければそれで濟む。だが保護主義を信奉する官僚から我々は逃れることができない。官僚は國民に對し權力を行使できるからだ。しかも厄介なことに、中野氏が舉げる保護主義擁護の根據は、いづれも見當外れだ。

例へば中野氏はアラン・トネルソンを引用しつつ、自由貿易により「先進諸国の製造業は、新興国との勝ち目のない価格引き下げ競争に巻き込まれ、自国の一般労働者の所得水準そして生活水準を半永久的に引き下げざるを得なくなる」と書く。「半永久的」とは恐れ入る。常識で考へればわかることだが、先進國の賃金率がどんどん下がれば、いつか新興國の賃金率と等しくなり、競爭條件は對等になるから、先進國の所得水準が「半永久的に」下がり續けるなどといふことはあり得ない。むしろ貿易を制限し、割高な國産品(とりわけ食料や衣料などの生活必需品)の贖入を事實上強制する保護主義こそ、一般勞働者を苦しめるものだ。

また中野氏は、自由貿易が2008年金融危機の遠因になつたと言ふ。新興國が貿易を通じて貯め込んだ巨額の資金米國市場で運用したため、住宅市場でバブルが發生し、その後のバブル崩潰と世界的な金融危機につながつたといふことらしい。

しかし新興國から得た資金を住宅市場に野放圖に注ぎ込んだのはファニーメイ(米聯邦住宅抵當公庫)やフレディマック(米聯邦住宅金融抵當金庫)といつた米國政府系住宅金融機關だし、それらの政府系機關が發行する債劵に「暗默の政府保證」を與へ資金調達を助けたのは米國政府だし、低金利政策や優遇税制で國民の住宅贖入熱を煽つたのも米國政府だ。政府が暴走し、住宅市場や金融市場をゆがめたことが金融危機の原因であつて、自由貿易金融危機の「遠因」だなどと言ふのは、働いて金を貯める奴がゐるから泥棒がはびこると難癖をつけるやうなものだ。

さらに中野氏は、自由貿易はせつかく不況對策として行つた財政政策の效果を失はせるからけしからんと主張する。だがもし自由貿易の下で外國製品が賣れるとしたら、それは國内企業より外國企業の製品の品質が良く、價格が安いからだ。國内企業は儲け損なふかもしれないが、一般國民はより少ない税金でより多くの便益を得ることになる。外資を締め出せば、損をするのは國民だ。

また國民が拂つた税金の中には、外國企業にモノやサービスを買つてもらつて得た所得も含まれてゐるはずだ。とすれば外國企業も税金を使つた政策の恩恵に浴する資格はあるはずで、市場から閉め出すなど恩を仇で返すやうなものだ。

中野氏は自分の主張について、主觀的には「官僚が権限を拡大したくて、政府の能力強化を唱えている」わけではないと信じてゐるのかもしれないが、客觀的には國民全體の利益よりも一部の國内企業やその從業員の利益を優先し、監督する官廳の權限擴大を目指してゐるやうにしか見えない。

ことさら「復權」を説くまでもなく、保護主義の風潮は世界中で強まつてゐる。公共事業で使ふ製品に米國製だけを認める米國の「バイ・アメリカン條項」などその典型だ。本書の52頁では、ノーベル經濟學賞を受賞したポール・クルーグマンが「財政出動の波及効果を国内経済に封じ込める」といふ中野氏と同樣の理由でバイ・アメリカン條項を擁護した事實が肯定的に紹介されてゐるが、これはクルーグマンエコノミストの名に値しない政治的煽動屋であることを如實に物語る。最近クルーグマンは、もしシナ*1米國債を賣られたらシナ製品に25%の對抗關税をかけよと主張し、保護主義者の本性をますますむき出しにしてゐる。もし暴落しさうな米國債を日本政府が賣却し、米國日本製品に對抗關税をかけたら、中野氏は米國政府の「英斷」に拍手するのだらうか。

人間は外國人に對し偏見を抱きやすい。その性向につけ込み、自己の利益の確保を狙ふ政治家や官僚の行動樣式は洋の東西を問はない。それを正當化しようと詭辯を弄する智識人にも事缺かない。自由貿易を貶める保護主義の罠に騙されてはいけない。

<こちらもどうぞ>

*1:「シナ(支那)」がいはゆる差別用語でないこと、「中國」といふ呼び方より望ましいことについては次の文章を參照。【私の正名論】評論家・呉智英 「支那」は世界の共通語 http://yamato4987.exblog.jp/7947133/