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財産權? それが何か?

個人の財産權は侵すことのできない神聖な權利だと考へるリバタリアンの立場から見ると、政府が課税やインフレ(通貨量の膨脹)によつて個人の財産を奪ふことは、「民間」の強盜と同じく、犯罪行爲に外ならない。だが殘念ながら、その道理を認め、國民の財産に一切手を出さないといふ殊勝な國家は存在しない。國民の財産權は一応認められてはゐるものの、實際は樣々な理由をつけて私有財産を卷き上げてよいことになつてゐる。

たとへば日本の場合、憲法第30條納税の義務を定めてゐることからも明らかなやうに、課税が犯罪であるなどといふ發想は當然ない。また第29條は、第1項で財産權の不可侵を高らかに謳ひ上げるところまではよいのだが、續く第2項で、法律で認めるもの以外は財産權として認めんからなと警告し、さらに第3項で、「正当な補償」とやらと引き替えに、お前らの財産を頂戴し、「公共のため」に使はせてもらふかもしれんぞと言ひ渡す。これでは不可侵の文言が泣く。

それでも課税や財産收容についてははつきり書いてあるからまだいい。たちが惡いのはインフレだ。日銀がカネの供給量を増やし、物價が上昇すると、個人が現金として保有する財産の價値が目減りする。つまりインフレとは、見えない課税であり、事實上の財産沒收なのだが、普通の税金と違ひ、いちいち國會で大騒ぎして法案を通す必要もなければ、收容と異なり、財産の目減りを補償する義務もない。

つまり政府はインフレ政策によつて、國民の同意を得る手續きなしに、國民の財産を奪ひ取ることができるのだ。こんなことが可能であるといふこと自體驚くべきスキャンダルだが、さらに驚くべきは、それを誰もが當然のこととみなし、違法とも不正とも考へないことだ。

これだけ基本的人權について喧しく論じられる現代において、財産權だけはそれを守る意識が市民の間で麻痺してしまつてゐる。いや、政府や智識人らによつて麻痺させられてゐると言つた方がいいだらう。

財産權意識を麻痺させた智識人集團の一つは、間違ひなく經濟學者だ。現代の主流派經濟學者は不況や貧困を論じる際、財産權の存在など一顧だにせず、課税やインフレで解決しろと言ひ出す。憲法だつて曲がりなりにも財産權の尊重を謳つてゐるのだから、多少配慮があつてもよささうなものだが、そんな素振りを見せる經濟學者は見たことがない。

この手の無頓着ぶりを最も遺憾なく示してゐるのは、井堀利宏東大教授の昨年出た著書のタイトルだらう。曰く、

誰から取り、誰に与えるか』(東洋経済新報社、2009年)

本屋で初めてこの書名を見たとき、思はず「ふざけるな」と叫びさうになつた。民主主義國家において、誰から財産を奪ひ、それを誰に與へるかは、たしかに多數者が牛耳る政府の胸三寸だが、その理不盡をここまで臆面もなく肯定した書名は見たことがない。中身は推して知るべしだ。

誰から取り、誰に与えるか―格差と再分配の政治経済学

一方、飯田泰之雨宮処凛脱貧困の経済学』(自由国民社、2009年)で、經濟學者の飯田氏は約十兆圓の貧困對策を提唱してゐる。本の帶に「財源? 捻出できますけど何か?」とあるので何かと思つて讀んでみたら、やつぱり増税とインフレだつた。

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

増税の柱は所得税と相續税だ。高所得者への所得課税について飯田氏はかう話す。

いま限界税率って「収入×40%」なんですけど、昔は75%というのもありました。75%はさすがにどうかと思いますが、せめて60%ぐらい、つまり橋本政権以前の率まで持っていければ、と思います。(186頁)

所得の40%を奪はれるといふのはほとんど奴隸だと思ふが、飯田氏はそれでは飽き足らず、「せめて60%ぐらい」は取るべきだといふ。なぜ75%ではまづく、なぜ60%なら許されるのか、論理的な説明は一切ないから、別に75%になつても不思議はない。要するに金持ちは少數者だからいくら搾取してもよいのだ。だが少數者への權利侵害を他人事として傍觀すれば、やがて多數者も同じ運命をたどることを忘れてはならない。

政府の介入により社會全體の「效用」が高まるのであれば、財産沒收を含むどんな介入でも許される。これが現代主流派經濟學の教義だ。この議論を延長して行けば、社會全體の「效用」が高まるといふ「證明」さへ出來れば社會主義も是認されることになる。財産權擁護の理論で武裝しない限り、政府から身を守る術はない。

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