遠くにありて

「西崎くん。17歳の時つきあってた子って、だれ?」
「……クラブのマネージャーやってた子」
「好きだった?」
「そりゃあ、その時はね」
「もどりたいわね、17歳の時に」
「そうかな、おれは今でいいや。人生やり直すのめんどくさい」
(私は、もどりたい。こわいもの知らずの、なまいきな17歳にもどりたい…(略)…17歳にもどって、西崎くんを好きになりたい)

近藤ようこのマンガ『遠くにありて』のヒロイン、中山朝生は、東京の大學を卒業して地方の美園高校に就職した。實家から少し離れた高校の近くで下宿生活を送るが、いつの日か東京へ戻り、編輯者の道を進む夢を捨て切れずにゐる。そんな時、高校で同級だつた西崎と再會する。西崎も東京からのUターン組で、家業の酒屋を繼いだのである。「東京に戻りたい」と話す朝生に、西崎は「なにしに? バカみてえ」と應じ、二人の仲は当初險惡である。

「東京じゃなきゃできない仕事があるわ! コンサートだって展覧会だって、こっちと東京じゃ比べもんにならないわよ!」
「女は気楽だよな〜〜。生活かかってないから、そんなことがいえるんだよ。仕事の好き嫌いいったり、コンサートだのなんだのって気楽な理由ならべて」
「男は、大義名分があっていいわよねっ。(中略)でも女は違う! 東京にいれば親不孝娘、地元に帰れば帰ったで、好きでもない仕事しながら『早く嫁にいけ』っていわれるだけ!」

あげく、「そうしてウダウダしているうちに“田舎のおばさん”になっちゃうんだわ」とこぼす朝生に、西崎はかう問ひただし、朝生は默りこむ。「田舎のおばさんで悪いんか? 田舎の子どもが田舎のおばさんになって悪いんか?」

遠くにありて (小学館文庫)

遠くにありて (小学館文庫)

コンサートや展覧会の話を持出す朝生を、西崎と同じやうに、「気楽」な女だと思ふ向きもあるかもしれぬ。しかしUターンした朝生や西崎と異なり、長男のくせに大學卒業後も東京に居殘つた私には、朝生の憧れを一笑に附す資格はないだらう。

「田舎の子ども」が「田舎のおばさんやおじさん」になつて惡い道理はないし、地方が東京に劣るとも思はないが、「東京じゃなきゃできない仕事」や、地方に乏しいものがあることは否定できぬ。近藤ようこと同じく新潟生まれの坂口安吾は、づけづけとかう書いてゐる。「一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである」(「續墮落論」)。ただし私の郷里は九州の地方都市であり、農村ではないのであるが。

堕落論 (集英社文庫)

さて、朝生は西崎に徐々に戀愛感情を抱く。冒頭の引用は、海邊で二人が初めて口づけを交す場面である。「17歳にもどって、西崎くんを好きになりたい」と心の中でつぶやく朝生の後ろで、夕陽が海に映える。

少し前に、朝生が十七歳の自分を囘想する場面がある。高校生の朝生は新聞部員であつた。「結婚なんかしなくていいと思う」「そうよね、恋愛だってエネルギーの浪費だわ」「えーっ、恋愛は必要だよ」 部室で話し合ふ朝生たちは生意氣で世間知らずだが、微笑ましい。「十年たってもまだ二十代よ! なんでもできるわ!」

今二十代になつた朝生は、「あの頃にもどって、人生をやり直せたらいいかな……。こんなこと考えるなんて、わたしもおばさんになったんだなあ」と昔をほろ苦く思ひ起こす。十七歳に戻れたら、部活ばかりにのめり込まず、「西崎くんを好きになりたい」と願ふのである。

私は男であるせいか、西崎と同じく、「人生やり直すのめんどくさい」といふ氣持ちが今は強いのだが、歸らぬ青春時代を切なく思ひ返す朝生の言葉には、胸を突かれる。人生はやり直しがきかないから尊いのだが、やり直しがきかないといふ事はやはり切ないのである。

結局、朝生は西崎との結婚を決意し、東京には戻らない。だがラストシーンで、下宿を引き拂ひ、新たな生活に踏み出す朝生は微笑んでゐる。朝生の人間的成長を感じさせる獨白は、近藤ようこの作品の中でも最も好きな臺詞の一つである。

まわり道して、
わたしは帰る。
そして、
新しい道を歩きはじめる。
また、
まわり道をするかも
しれないけど――
それでもいいと、
今は思う。

(初出「地獄の箴言」2000年6月18日。表記を一部修正、補足)

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