【寄稿】人間の権利(Man's Right)について

私はこれから木村貴さんの全面的な助力を得て、リバタリアンの立場から、拙文を時々発表させて頂く予定だが、今回は人間の権利とは何かというトピックスを取上げる。

問題のポイントは、人間の権利は福祉優先主義(福祉国家の理念)と両立するか否かということである。今日の日本のあらゆる政党は福祉重視を当然のことのように考えている。その理由としては、市場経済(資本主義経済)には弱肉強食という欠陥があるから、これを是正するのが政府の役割だという思想が常識化しているからであろう。

この今日的な問題を検討するには、古くて新しいアイン・ランドの説が参考になる。彼女は自由放任の資本主義の主唱者であり、当然ながら人間の権利すなわち個人の権利、或は個人の行為の自由の主唱者でもある。

彼女はいう。権利とは道徳的概念である。個人の権利とは、社会を道徳律に従属させる手段である。あらゆる政治制度は何等かの倫理という規範を土台に形成されているが、歴史上支配的な倫理は利他主義的な集団優先的思想の変種であった。しかし生命体から切断された単なる個人の数(集合)に過ぎない集団(社会・国家)が、個人の上位にあり、全能の支配者として道徳律の上に君臨するのは非道徳どころか道徳のない(amoral)状態である。

肩をすくめるアトラス

『肩をすくめるアトラス』と題する長編小説の中でランドは次のように書いている。「人間の権利とは人間が適切に生き延びるため人間の本性が必要とする存在の条件である」と。人間が生き延びるには、人間は自らの努力によってその生命を支えてゆかねばならない。だからその努力の所産である財産に対する権利(私有財産権)は行為に対する権利である。生産はするが、その生産物の処分は他人や集団がするというのは、奴隷の場合である。財産権は生存権とともに人間にとって不可欠・不可分の権利なのである。

この人間の権利の潜在的な侵害者は犯罪者と国家(政府)である。アメリカの権利章典(Bill of Rights)は市民(個人)に向けられたものではなく、政府に対して向けられたものである。市民が権利の保有者であり、政府の唯一妥当な目的は市民を物理的暴力から守ること、つまり個人の権利の保護であることを明確にしたものである、とランドは説く。

ところがこの唯一の権利の保持者の権利のほかに、歴史の示すところでは、新しい権利の捏造・増殖が見られる。1960年のアメリカ民主党の綱領がその典型である。同党は「経済的権利法案」なるものを掲げ以下の主張をした。(1)有益で有利な職を得る権利(2)十分な収入を稼ぐ権利(3)品位のある生活が出来るだけの報酬を得る権利(4)国内外の諸独占体による不公正な競争や支配から解放された環境で交易を行う権利(5)住宅を持つ権利(6)適切な医療やその機会を得る権利(6)老齢や病気、事故や失業による経済的恐怖から適切な保護を受ける権利(8)良き教育を受ける権利。因みに、現在の日本の各政党もこの類の権利を主張して、個人からの得票確保に余念がないのは周知の通りである。

利己主義という気概ーエゴイズムを積極的に肯定するー

ところで上記のような権利の概念は、それらの権利が行使される場合、誰がその費用を支払うのかという問題を全く考慮していない。もしこの綱領を実施すれば、個人の権利は他人によって強制的に奪われることになる。政府は個人の権利の守護者から、その剥奪者に変貌することは明らかであろう。権利を所有する者は個人以外にはない。「個人の権利」という言葉は冗語(redundancy)である、とランドは主張する。

無政府資本主義論者のマレー・N・ロスバードは、課税の存在そのものによって、政府の中立性・公平性は否定されるという。その理由は課税によって純納税者と純税消費者という対立する二階級が生じ、この両者の不公平と格差は、政府の財政活動の規模拡大とともに拡大するからである。もし前記の「経済的権利法案」が制定、実施されるならば、計り知れないほどの巨額の財政支出が必要となるだろうが、それでもその目的は達成されないだろう。その代り純納税者と純税消費者の不公平・格差だけは計り知れないほど拡大するのは間違いなさそうである。課税に中立的なものはあり得ない以上、政府は徴税によって、個人は他者からその所有物を奪ってはならないとする法律の規定を自ら破ることになる。つまり国家(政府)自体が法律に違反する犯罪者である、とロスバードはいう。ランドのいう上記の新しい権利の捏造は政府の犯罪性の悪質化を飛躍的に推進することは確実であろう。

自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系

ランドはロスバードのような無政府主義論者ではないが、個人に犠牲を強いる全体主義的なあらゆる教義や体制、すなわち共産主義社会主義福祉国家ファシズムナチズム・混合経済の主唱者に反対する。しかも傾向としては、混合経済や福祉国家は次第に全体主義的な独裁制に向かっていると警告している。

独裁制の倫理的基礎は利他主義である。それは他者への奉仕が自分の存在を正当化する唯一のものであり、自己犠牲が倫理的に最も高い義務・価値・美徳だと教える。だから独裁制を阻止するには、この観念を廃棄することが大切であるとランドは主張する。現にランドの教えを俟つまでもなく、日本の近隣にも個人崇拝・一党独裁・自由な言論の抑圧を常としている国家が存在しており、ランド説の正しさを立証しているように思う。

しかるに、今日の政治経済学の主流派は、その学問の任務を、共同社会(国家)の資源の最適配分にあるといった価値観に立脚し、資本主義(市場経済)を一応是認した上で、政府の任務はこの資本主義の欠陥を補正し、富の公平な再配分を計ることであると考えているようである。しかし公共の善・公益・公平な分配といった観念は定義出来ない概念である。社会(国家)は個人の数(集合)に過ぎない。善とか価値とかは生命のある有機体にのみ関係するもので、肉体から遊離した集合には、かかわりがない。社会(国家)の資源の最適配分といったものを共同の善・価値と考え、それを個人の善・価値よりも何か優越するものであるかのように考えるのは根本的に誤謬であるという。このことを明示してこなかったことに人類の悲劇があるとランドは論じる。

ロスバードに至っては、国家(政府)そのものが犯罪者であって、ランドのいうような個人の権利の保護者の役割を果す資格を欠落していると考えている。ロスバードもランドも共に個人こそが権利の保持者であると考えるが、国家(政府)観では両者は異なっている。私は国家観に関しては、ロスバードの方に軍配を上げるが、諸賢はいかがであろうか。ご一考を煩したいと思う。

新オーストリア学派の思想と理論 (MINERVA現代経済学叢書)

【筆者紹介】越後 和典(えちご・かずのり) 1927年滋賀県に生まれる。1950年京都大学経済学部卒業。現在、滋賀大学名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。産業学会名誉会員。経済学博士。著書に『競争と独占』(ミネルヴァ書房、1985年)、『新オーストリア学派の思想と理論』(同、2003年)など。

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