【飜譯】リバタリアンの戰爭理論(ロスバード)

マレー・ロスバード
(2011年5月16日、ミーゼス研究所デイリー・コラムより。The Myth of National Defense 〔『國防の神話』、2003年、未邦譯〕より拔粹)

リバタリアン運動は、現代の主要な問題に立ち向かふうへで「戰略的知性」を利用できてゐないと、ウィリアム・バックリー・ジュニア〔1925– 2008、米保守主義の代表的評論家〕からかねてたしなめられてきた。たしかに私たち〔リバタリアン〕はともすれば、(バックリーが輕蔑を込めて書いてゐるやうに)「ゴミ收集民營化の是非を小さなセミナーでせはしなく議論」しておきながら、リバタリアンの理論を現代のもつとも重大な問題に適用しようとしないか、適用できないでゐる。その問題とはすなはち、戰爭と平和である。リバタリアンは思考が戰略的といふより夢想的であり、心に描く理想の制度を、自分たちが生きてゐる世界の現實から切り離して考へるきらひがある。
自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系
つまり私たちはあまりにも理論と實踐を切り離して考へすぎ、純粹なリバタリアン社會を遠い未來の抽象的な理想として抱いて滿足する一方で、今日の現實世界では深く考へもせず傳統的な「保守」路線にしたがつてしまふ。自由を生きるためには、すなはち嚴しいが避けることのできない戰略的鬪爭を始め、現代の不滿の殘る世界を私たちの理想に向けて變へてゆくためには、リバタリアンの理論が世界のあらゆる重要な問題に鋭い解答を示しうることを理解し、世間に證明しなければならない。これらの問題に取り組むことによつて明らかにできるのは、リバタリアニズムが單にどこかの桃源郷に存在する麗しい理想ではなく、現實的な眞理の體系だといふことだ。この體系によつて私たちは自分の立場を明確にし、現代のあらゆる問題に立ち向かふことができる。

さあ、ぜひとも戰略的知性を利用しようではないか。もつともバックリー氏がその結果を知つたら、リバタリアンがゴミ收集の話題に終始してゐればよかつたと思ふかもしれない。戰爭と平和についてのリバタリアン理論を築いてみよう。
リバタリアン理論の根本原理は、何人も他人の身體や財産に對し脅迫や暴力(「攻撃」)を用ゐてはならないといふことである。そのやうな暴力を用ゐる者に對してのみ、暴力の使用は許される。すなはち、他人の攻撃的暴力に對する防禦としてのみ許される。つまり攻撃しない者に對する暴力の使用は許されない。この根本原理からリバタリアン理論の全體系が導き出される。

政府に關する問題はさらに複雜なのでひとまずおいて、「民間」の個人間における單純な關係について考へてみよう。ジョーンズ自身またはジョーンズの財産がスミスによつて侵害・攻撃されたとしよう。すでに述べたやうに、ジョーンズが防衞的暴力によつてこの侵害を撃退するのは正當である。しかしここでさらに厄介な問題に行きあたる。スミスに對する正當な防衞の延長として、罪のない第三者に暴力を用ゐることも、ジョーンズの權利の範圍内だらうか。リバタリアンにとつて、答へは明らかに否でなければならない。

罪のない人物の身體・財産への暴力を禁じるルールは絶對であることを忘れてはならない。このことは侵害の主觀的動機が何であらうとあてはまる。たとへそれがロビン・フッドでも、飢ゑに苦しむ人でも、肉親を救ふためでも、別の者の攻撃から自分を守るためでも、他人の財産や身體を侵すことは惡であり、犯罪である。これらのうち多くの場合や極端な状況における動機を私たちは理解し、同情するかもしれない。後でその犯罪者が處罰のために裁判にかけられたとき、その罪を輕減するかもしれない。だがそれでも、この侵害が犯罪行爲であり、被害者は必要であれば暴力をもつてしてもこれを撃退するあらゆる權利を持つといふ判決を下すことを、避けることはできない。

つまり、かうである。CがAに脅威を及ぼすか、害を加へるといふ理由で、AはBに害を加へる。事のなりゆき全體からすると、Cの「高次」の有責性を私たちは理解するだらうが、それでもなほ、Aによるこの侵害は犯罪行爲であり、Bが暴力によつてこれを撃退する權利を持つやうな行爲といふラベルを貼らなければならない。

より具體的にいへば、もしジョーンズの財産がスミスに盜まれようとしたなら、ジョーンズはスミスを撃退し、捕らへようとする權利があるが、だからといつて、スミスを撃退するために建物を爆破して無辜の人々を殺害したり、捕らへるために無辜の群集に向かひ機關銃を掃射しまくつたりする權利はない。もしさうするなら、ジョーンズはスミスと同程度(あるいはそれ以上)の犯罪的加害者だといふことになる。
戦争の甘い誘惑
戰爭と平和の問題にリバタリアンの理論を適用するとどうなるか、すでに明らかになつてきた。戰爭は狹い意味では政府間の爭ひだが、廣い意味では、人々の間、あるいは人々の集團間におけるあからさまな暴力の勃發と定義できる。もしスミスとその子分がジョーンズに害を加へ、ジョーンズとその用心棒がスミス一味を隱れ家まで追跡するなら、私たちはジョーンズの努力に喝采し、侵害の撃退に關心を持つ社會の他の人々とともに、ジョーンズの大義に、財政的にあるいは身をもつて貢獻するかもしれない。

だがジョーンズはスミス同樣、自分の「正當な戰爭」に居合はせた他のいかなる人に對しても害を加へる權利を持たない。すなはち、自分の追跡の資金を融通するために他の人の財産を盜んだり、暴力を用ゐて徴兵をおこなひ追跡隊に入れたり、スミス軍を捕らへんとして戰ふ際に居合はせた他の人を殺したりする權利はない。萬一ジョーンズがこれらのうちどれかをおこなつたなら、ジョーンズはスミスと同じくらゐ完全な犯罪者となり、犯罪のたびに應分の制裁を何であれ受けることになる。

實際、もしスミスの犯罪が竊盜で、かりにジョーンズがスミスを捕らへるために徴兵をおこなふなら、あるいは追跡中に無辜の人を殺すなら、ジョーンズはスミスよりも罪の重い犯罪者になる。といふのも、他者の奴隸化や殺人といつた犯罪は、當然ながら竊盜よりもはるかに惡いことだからである(なぜなら竊盜が傷つけるのは他人の人格の延長だが、奴隸化は人格そのものを傷つけ、殺人は完全に破壞するからである)。

かりに、ジョーンズがスミスの掠奪に對する「正當な戰爭」に居合はせた何人かの無辜の人々を殺すと想定してみよう。そして、この殺人を辯護するために、自分はただ「自由を與へよ、さもなくば死を」といふスローガンに則つて行動していただけだと熱辯をふるふとしよう。この「辯護」のばかばかしさは、ただちに明らかになるだらう。といふのも、問題となつてゐるのは、ジョーンズがスミスに對する防衞的鬪爭において身を死の危險にさらすことを厭はなかつたかどうかではないからである。問題となつてゐるのは、正當な目的の追求において、ジョーンズが無辜の他者を殺すことを厭はなかつたかどうかである。なぜなら、ジョーンズは實のところ、「自由を與へよ、さもなくば彼らに死を」といふ、まつたく辯護の餘地のないスローガンに則つて行動してゐたからである(このスローガン、鬨の聲としてはさらに威嚴を缺く)。

したがつてリバタリアンの戰爭に對する基本的態度は次のやうでなければならない。すなはち、人身と財産の權利を守るために犯罪者に對して用ゐられる暴力は正當なものである。罪のない他人の權利を侵すことはまつたく許容できない。であるならば、戰爭が適正であるのは、暴力行使の對象が個々の犯罪者そのものだけに嚴しく限定されてゐる場合のみである。歴史上の戰爭や紛爭のうち、いつたいどれほどがこの規準に合致してゐたか、私たち自身で判定できよう。

次のやうなことが、とりわけ保守主義者によつて、しばしば主張されてきた。すなはち、現代の恐ろしい大量殺人兵器(核兵器、ロケット、細菌戰など)の開發と、舊來のもつと單純な兵器との違ひは、種類の問題ではなく程度の問題にすぎないと。むろん、もし程度といふのが人命の數ならばその違ひは非常に大きなものだ、といふのもこの主張に對する一つの囘答である。しかしリバタリアンであればただちにかう囘答できる。すなはち、弓矢が、そしてライフルも、意志さへあれば本當の犯罪者を正確に狙ふことができるのに對し、現代の核兵器はそれができない。これは決定的な種類の違ひであると。

むろん、弓矢は侵害的な目的に使ふことができたが、侵害者に對してだけ使ふにとどめることもできた。核兵器は「通常型」の投下爆彈でさへ、さうすることができない。これらの兵器はそれ自體で、無差別大量破壞の裝置なのである。(唯一の例外として、宏大な地理的領域に居住してゐる人々が全員犯罪者であるといふ、極端にまれな場合があらう。)したがつて、核兵器ないし類似の兵器の使用、あるいは使用するといふ脅迫は、微塵も正當化の餘地のない、人類に對する犯罪であると結論しなければならない。

かういふわけで、戰爭と平和の問題を判斷する際に重要なのは武器ではなくて武器を使ふ意志である、といふ古い決まり文句は、もはやあてはまらない。といふのも、選擇的に使ふことができない、つまりリバタリアンな仕方では使へないといふところが、まさに現代兵器の特性だからである。したがつて、それらの存在そのものが非難されねばならず、核軍縮はそれ自體目的として追求されるべき善である。
アメリカ・力の限界
もし戰略的知性を用ゐるならば、このやうな軍縮は現代世界において追求されうる最高の政治的善である。なぜなら、殺人が竊盜よりも非道な犯罪であるのとまつたく同樣に、大量殺戮(まつたくのところ、人類の文明と人類の生存そのものを脅かすほど廣汎圍に及ぶ殺人)は人間の犯しうる最惡の犯罪であるからだ。この犯罪はいまや差し迫つてゐる。そして實際、大量殺戮を未然に防ぐことは、ゴミ收集の民營化がどれだけ大切にせよ、それよりはるかに重要である。それともリバタリアンは價格統制や所得税については適切にも憤りをおぼえるのに、大量殺戮といふ究極の犯罪に對しては肩をすくめるか、あるいは積極的にこれを支持しさへするといふのだらうか。

(マレー・ロスバード〔1926–1995〕はオーストリア學派の經濟學者、經濟史家、リバタリアン政治哲學者。飜譯にあたつては、ほぼ同内容の文章を收めたロスバード著、森村進他譯『自由の倫理学』の「25 国家間の関係について」を參照した)

譯者のひとこと>私がリバタリアニズムを學び始めた頃、もつとも衝撃を受けたのがロスバードによる戰爭論であつた。それまでリバタリアニズム保守主義の一種だらうくらゐに思つてゐたのだが、今囘の文章でロスバードが保守主義の大御所バックリーを暗に批判してゐることからもわかるやうに、戰爭論においてリバタリアン(少なくとも私からみて首尾一貫したリバタリアン)は保守主義者(とくにネオコンと呼ばれる現代の新保守主義者)と明確に一線を畫す。リバタリアンの根本原理は「何人も他人の身體や財産に對し脅迫や暴力を用ゐてはならない」といふことであり、この原理に忠實であるかぎり、ロスバードが説くやうに、ある人間(政府を構成する人間)がいかに大義を信じる戰爭であつても、徴兵によつて他人(國民)をその戰爭に無理やり參加させることは許されないし、戰爭の資金を税やインフレによつて無理やり奪ふことも許されない。また、核兵器は本當の犯罪者だけを正確に狙ふことが原理的にできない無差別大量殺戮裝置だから、それを使用することはおろか、使用するといふ脅迫も許されない。かうしたロスバードの主張に最初は隨分驚き、抵抗もあつたが、時間をかけて考へるにしたがひ、その倫理的な正しさが納得されてきた。正しい戰爭は個人が自分の意思で、自分の生命を賭けておこなふから尊いのであつて、他人に強制すべきものではないのである。

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