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不徹底な自由の擁護――池田信夫・藤沢数希の原發本

福島原發事故一年を前に、池田信夫、藤沢数希といふ二人の著名ブロガーが相次いで原子力發電に關する本を上梓した。いづれも基本的には原發を含む電力の自由化を唱へてをり、その限りにおいて評價できる。しかし仔細にみると、肝腎な部分で政府の關與を許容したり、あるいは積極的に推奬さへしたりして、せつかくの自由化論を説得力に乏しいものにしてしまつてゐる。
「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)
まづ藤沢本『「反原発」の不都合な真実』(新潮新書)を見よう。化石燃料地球温暖化を起こすといふ、かなり異論の唱へられてゐる説を頭から肯定してゐるのが氣になるが、今囘は經濟學的論點に絞らう。一番の問題は電力自由化を論じる肝腎の部分で、次のやうに自由化そのものに一定の限界があると主張してゐることだ。「電力会社というのは経済学の教科書には、マーケット・メカニズムだけではうまくいかない例として必ず出てきます」(184頁)。だから地域獨占の電力會社を温存して安定供給の義務を負はせ、自由化は部分的にとどめるのがよいといふ。

以前も書いたことだが、藤沢氏は、「市場の失敗」を異樣に強調する主流派經濟學の主張、それも一昔前の主張を深く檢討もせず信じ込んでゐる。電力事業が市場經濟になじまないなどといふのは、政府に都合のよい嘘でしかない。このことは池田本でも指摘されてゐる。「経済学の教科書では、電力会社は『自然独占』の一種とされていることが多いが、これは昔の話である」(池田本、147頁)。藤沢氏が日頃唱へる教育や勞働の自由化に私は賛成だが、それなら電力も同樣に大膽に自由化しなければ筋が通らない。
原発「危険神話」の崩壊 (PHP新書)
さて、次に池田本『原発「危険神話」の崩壊』(PHP新書)である。福島原發事故で一般住民に死者が出なかつたことを根據に原發の安全性を主張してゐるのが目玉で、これには異論も多いやうだが、私にはここで論評する餘裕も十分な智識もない。「原發のコスト」に論點を限らう。

池田氏は、環境經濟學者の大島堅一氏が著書『原発のコスト』(岩波新書)で、原發のコストとして發電に直接要するコストだけでなく、研究開發、立地對策のコストを含めてゐることにかう異を唱へる。「これ〔研究開發と立地對策のコスト〕は過去のサンクコストである」(171-172頁。強調は原文)
原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)
サンクコスト」とは、すでに事業につぎ込んでしまつて囘收不能な費用を指し、事業の實行を決定する際には考慮に入れるべきでないとされる。たとへば研究開發費に一億圓つぎ込んだ製品があり、これを事業化した場合に得られる利益が八千萬圓とする。研究開發費(サンクコスト)を含めると二千萬圓の損になるからといつて事業化をやめてしまふと、研究開發費の一億圓すべてが無駄になる。一方、事業化すれば八千萬圓を取り戻すことができ、全體の損は二千萬圓で濟む。だからこの場合、事業化するのが正しい。

池田氏は原發もこの例と同じであり、だから事業を繼續せよと言ひたいわけである。だが本當にさうだらうか。事業化すべきかどうかの判斷のポイントは、その事業で利益(黒字)を出せるかどうかである。もし損失(赤字)が豫想されるのであれば、過去にどれだけ多額のコストをつぎ込んでゐても、それにとらはれず計劃を中止すべきだといふことになる。

だから池田氏が原發事業の繼續を主張したいのなら、事業で黒字が出ることを示さなければならない。ところがどこを讀んでもその記述がないばかりか、むしろこんなことが書いてある。「事業としての採算性を考えると、事故の賠償額が非常に大きいと電力会社が負担できない……政府が保険を引き受ければ原発を民間企業が運転することは可能だろう」(172頁)。何のことはない、賠償のリスクを考慮すると原發は民間事業として黒字を出すのは無理だと池田氏は認めてゐるのである。それならむしろ中止すべきではないか。

もしかすると池田氏は、政府の補助を含めれば黒字になると考へてゐるのかもしれない。だがそんなことを言ひ出したら、政府は税金を取り、それを配分する權限を持つのだから、その氣になればどんな事業だつて「黒字」にできる。サンクコストもくそもない。

池田氏が指摘するやうに、政府の嚴しすぎる安全基準によつて原發事故の賠償額が過大に膨れあがつてゐる可能性はある。だがもしさうだとしても、政府が保險を引き受けて電力會社を助ければ、誤つた政策のツケを納税者に囘すことになるし、電力會社にモラルハザードをもたらし、事故を防ぐ意識を弱めてしまふ。いくら池田氏が原發の「ポテンシャルは大きい」(182頁)と考へるからといつて、それを政府が支へろと主張するのでは、税による再生可能エネルギー普及策を唱へる大島氏を批判できない。

私は反原發でも親原發でもない。一年前にも書いたやうに、適切な電力サービスは政府の介入しない、自由な市場取引だけが教へてくれると信じるだけである。自由化陣營に屬する兩論客が滿を持して放つた原發論が、經濟的自由の擁護にとつて不徹底で物足りないものにとどまつたのは、殘念である。

(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)

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