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「デフレは惡」の呪縛

若田部昌澄・栗原裕一郎『本当の経済の話をしよう』(ちくま新書)は、すばらしい部分と惜しまれる部分が混在してゐる。經濟學者で先生役の若田部は、評論家で生徒役の栗原に、多彩なエピソードを交へて經濟學の基本をわかりやすく講義する。すばらしいのは、明快な論理にもとづき、政治的多數説や世間の「良識」に反するやうな主張をずばりと述べる部分である。一方で惜しまれるのは、若田部が「デフレは惡」といふ神話に縛られ、論理の切れ味が鈍つてしまつてゐる部分である。
本当の経済の話をしよう (ちくま新書)
賛同できる若田部の主張はいろいろある。「市場の道徳的限界」を強調するマイケル・サンデルを俎上に載せ、それなら「道徳の市場的限界」も考へるべきだと切り返す(110頁)のは秀逸だし、貿易黒字が善、赤字が惡といふ内田樹の誤つた思ひ込みに對し、もしさうなら獨立以來百四十年以上ほとんど貿易赤字のカナダは「もう死んでてもをかしくない」と皮肉る箇所(150頁)も樂しい。グローバリゼーションが進むほど經濟成長は早くなるからむしろ貧困は減る(167頁)、政府と結託した權力濫用は資本主義に限らない(255頁)といつた指摘も、紋切型の資本主義批判の矛盾を衝いてゐる。

特筆すべきは、格差についての洞察である。人々が自分の得意分野(またはあまり不得意でない分野)に應じて物やサービスを交換し合ふのは、人がそれぞれ違ふからであり、だとすると「格差というのは、あるほうがむしろ自然ということもできる」(269頁)と、愼重な言ひ囘しながら述べる。さらに、金以外の名譽などを選好する人もゐる以上、「一概に再分配〔富裕層の財産を貧困層に分け與へる政策〕が必要であるとは言いにくくなってくる」(270頁)とつけ加へる。再分配政策を完全に否定してゐるわけではない(殘念!)ものの、格差は惡といふ世間の「良識」に正面から異を唱へた勇氣は稱賛に値する。

さて、本書には以上のやうな美點にもかかはらず、見過ごせない缺點がある。それは「デフレ(物價全般の下落)は惡い」といふ、若田部ら「リフレ派」の持論にかかはる部分である。たとへば、こんなやりとりがある。

若田部 19世紀後半に、ヨーロッパ各国は次々と金本位制を採り始めた。……いろんな国が採用すれば、金への需要が増えるよね。でも金の量はあまり変わらないから、金の価値が上がることになる。すると当然、貨幣の価値も上がる。貨幣の価値が上がるとどうなるか。前回やったよね。
栗原 デフレになる!
若田部 そうそう(笑)。それで1873年から、当時の人が言う大不況に陥ってしまった。……デフレが解消されたのはようやく1896年のことだ。(191頁)

この部分だけ讀んだ讀者は、十九世紀後半の二十三年もの間、歐米はデフレが原因で不況に苦しんだと思ふに違ひない。ところがわづか二頁後ろで、若田部はかう發言する。

この19世紀後半というのは、デフレだったにもかかわらず経済成長していたという時代でもあった。「大不況」というのは当時の人たちの実感に基づいた言い分で、経済史家たちを中心に、違うという議論は多い。(193頁)

あれれ、すると大不況ではないではないか。若田部は「本当に『良いデフレ』だったかはちょっと議論の分かれるところだ」と頑張つてはゐるが、議論が分かれてゐるのであれば、「当時の人が言う」などと逃げを打ちながら、「大不況に陥ってしまった」と斷定し、十九世紀末が「惡いデフレ」であるかのやうな印象を與へるのは、やはり不適切だらう。

なほ若田部自身が率直に語つてゐる(135頁)ことだが、若田部が解説を執筆した『大停滞』(NTT出版、2011年)の著者で米ジョージ・メーソン大教授のタイラー・コーエンは、デフレでも經濟成長がありうる例として、この時代を舉げてゐる。ちなみにコーエンは、「日本の停滞はデフレのせいではないか」との若田部の問ひ合はせに對し、「25年も続く停滞が貨幣的要因によるものとは思えない」と囘答したといふ。
大停滞
それでは、なぜ十九世紀にはデフレでも經濟成長できたのに、現在はできないと言はれるのか。それは「名目値の硬直性」が原因だと若田部は説明する(194頁)。十九世紀は、物價が下がるとそれに合はせて給料を短期間で大幅に引き下げることができた。だが二十世紀以降は、勞働組合が「黙っちゃいない」ことなどから、大幅な減給はやりにくくなり、デフレで物價が安くなると給料は名目横ばいでも實質上昇し、人件費が企業收益を壓迫して、これが不況を招くといふ。

しかしさういふ事情で賃金が下がらないからといつて、政府の力でデフレを食ひ止める正當な理由になるだらうか。若田部は、大幅な賃下げが許された十九世紀は「まだ民主主義も揺籃期」と、あたかも未開の時代だつたかのやうに語るが、民主主義の「成熟」が文明にとつて進歩だとは限らない。むしろ民主主義は、政府と結託して人々の經濟的自由を奪ふ利益團體の横行を許し、市場の機能不全を招いてゐる。

勞組が企業と個人の自由な交渉による賃下げを阻むことができるのは、政府の後ろ盾があるからであり、農協が政府に保護され、農業參入や輸入自由化を拒むのと變はらない。農業について「市場経済である以上、品質や生産性を上げる努力をするのは当然」(153頁)と言ふのなら、賃金勞働についても市場原理に從ふやう提言するのが筋だらう。
デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)
しかも日銀がお金を作り出す過程で得る通貨發行益(シニョレッジ)は、若田部自身も認めるやうに、「税金と同じ」(223頁)である。ここで生徒役の栗原は「手品みたいな話ですねえ」などと感心せず、ぜひ素人代表として「消費増税であれだけ大騒ぎしているのに、日銀の隠れ増税が許されていいんですか!」と突つ込んでほしかつた。「リバタリアンパターナリズム」(自由放任的温情主義)のインチキを見拔いた(287頁)眼力の持ち主だけに、惜しまれる。若田部によると「またどこかで続きをしましょう」(306頁)といふことなので、樂しみにしたい。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)