亡國の經濟學

藤井聡・中野剛志『日本破滅論』(文春新書)で對談者の二人は、公共事業に消極的な主流派經濟學を罵倒し、日本を破滅させないためには、大規模な公共事業を斷行せよと主張する。もちろん、自分たちの主張こそ亡國に導くものだとは、まつたく氣づいてゐない。
日本破滅論 (文春新書)
藤井は政府のことを「日本国家の最大の大旦那」(246頁)などと呼ぶが、大旦那とは、自分のカネをたくさん持つてゐる人のことである。しかし政府に自分のカネはない。使ひたければ、國民から税を取り立てる(通貨發行による見えない税、未來の課税をあてにした借金を含む)しかない。だから教科書に書いてあるケインズ教の教義と異なり、政府がカネを使へば使ふほど、國民は自分で使へるカネが減り、差し引きで經濟にプラスの效果はない。

藤井は、政府支出を擴大すると、實際にGDP(國内總生産)が増えると主張する(133頁)。外見上の效果はあるかもしれない。だがやがて厄介なことになる。藤井が提案するやうに、政府が「思い切り借金をして」(246頁)カネを使ひまくつた國がどうなつたか、見てみよう。1980年以降、二十年以上財政赤字が續いた國で、その期間中の名目GDP平均伸び率が高かつた堂々一位は、破綻寸前のギリシャ(13.7%)である。同じく危機に瀕するポルトガル(11.6%)、スペイン(9.4%)も上位に食ひ込んでゐる。藤井はここに日本を仲間入りさせたいらしい。

また藤井は、東日本大震災の際、孤立した小學校の生徒らが三陸縱貫道を通つて脱出して助かり、縱貫道が「命の道」と稱へられたといふエピソードを舉げ、公共投資はやはり必要だと力説する(61頁)。しかし藤井は、政府の造つた道路で年四千人を超す交通事故死亡者が出てゐることは忘れてゐる。

もし民間企業が設計・運營する道路があつたとして、暴走車が子供の列に簡單に突つ込み、何人もの命を奪ふ事故が起こつたら、政府は安全對策が不十分として企業を非難し、道路事業を少なくとも一時禁止するだらう。ところが政府の道路で同じことが起こつても、だれも政府を責めないし、政府は當然のやうに道路を造り續ける。もし本當に人命が大事なら、「死の道」を造つてもおとがめなしの政府でなく、消費者から市場退場を迫られる民間企業に任せるべきである。

けれども藤井も中野も、政府は民間より公正かつ賢明でありうるといふ幻想にどつぷり滲かつてをり、拔け出せさうにない。中野は、新自由主義を信奉する若いエコノミストを「たいした教養も経験もない、志も高くない連中」(235頁)とさげすみ、本來のマクロ經濟學は、經世濟民を旨とする「エリートの学問」だと強調する。だがその「エリートの学問」とやらがどんなものかと言へば、中野はたとへばこんなことを言ふ。

各国は、自国民を食わせるためにいろいろな政策を打ちます。(252頁)

「自国民を食わせる」とは恐れ入る。さきほど述べたやうに、政府は國民からカネを取り立て、右から左に動かすだけであつて、經濟のパイを大きくすることはできない。パイを大きくするのは政府ではなく國民だし、政治家や官僚を税金で「食わせる」のも國民である。中野が勘違ひしてゐるやうに、その逆ではない。中野はまたかう言ふ。

確かに国家事業には失敗も多い。でも、イノベーションなのだから、失敗があっても仕方ないんです。(117頁)

強制的に取り上げた他人のカネで「国家事業」に興じる政府に、「失敗があっても仕方ない」などと涼しい顏で言ふ資格はない。中野は探査機「はやぶさ」について、「みんながナショナリスティックに感動した」と持ち上げ、藤井も「映画にまでなって、国民みんなで喜んでいる」と同意するが、ナショナリズムといふ感情は、竹島問題で日韓スワップ協定を破毀せよなどと對立を煽る論者に見られるやうに、理性を曇らせるものである。米國ではNASA(航空宇宙局)の財政負擔が以前から問題になつてゐる。宇宙調査・開發は民間で自發的にやるべきである。もう一つだけ中野の發言。

戦争は人間を大量に動員します。すると、食糧の調達はもちろん、息抜きの娯楽や性の処理もしないといけない。組織をマネージして、敵が迫る恐怖の中でも突進させねばならない。そのためには、どうやって勇気を奮い起こさせるか、敵からどう情報を取るか、トータルなマクロ人間学が必要になるんです。(242頁)

「突進させ」るだの、「勇気を奮い起こさせる」だの、人間をまるで鬪犬か何かのやうに表現できるとは、さすがエリートである。ぜひ私もいつかエリートの末席に連なり、戰場で突進する側でなく、突進させる側に囘りたいものである。戰爭については藤井も負けてゐない。

戦争でも起きれば、「よっしゃ、頑張るぞ」と、人間はやる気を起こします。そこにドラマも生まれる。でも、そんなこともなく、ずぶずぶと資本家の奴隷になっていく未来しかない。(250頁)

資本主義における取引は、一方が政府と結託して自分の要求を強制しない限り、互ひの合意にもとづくものであり、相手がどんなに巨大な企業でも、主人と奴隸の關係など存在しない。一方、政府の軍隊は離脱の自由がなく、どんな無茶な命令でも絶對服從で、よほど奴隸に近い。自由と平和を憎み、隸從と戰爭を稱へる、亡國の「ドラマ」。夏の夜の怪談として愉しむには、ちよつと怖すぎる。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)