「資本主義の暴走」のウソ

今の世の中で、資本主義と言へば、「暴走」するものと相場が決まつてゐる。元外交官で評論家の佐藤優は『人間の叡智』(文春新書)で、この手垢のついた主張をまたぞろ繰り返す。現代の資本主義の「暴走」を防げるのは國家しかないから、國家の強化が必要だと言ふ。しかし事實を言へば、暴走して社會の調和を亂すのは、資本主義ではなく、國家(政府)である。國家の暴走に齒止めをかけるため、資本主義の強化こそ必要なのだ。
人間の叡智 (文春新書 869)
人間が欲しい物を他人から手に入れる方法には二種類ある。一つは、相手が欲しがる自分の物と交換する方法である。これが市場經濟、すなはち資本主義である。實際には物のほかサービスも交換され、交換を仲介する特別な「物」としてお金を使ふ。もう一つは、脅迫や暴力で無理やり奪ふ方法である。この手をよく使ふのは強盜や暴力團だが、最も大規模なのは、國家である。國家は税金(紙幣印刷による「見えない税」を含む)で個人の財産を無理やり奪ふ。もちろん強盜は非合法、國家は合法といふ違ひはあるが、それだけの違ひしかない。どちらも他人の財産を強制的に奪ふことに變はりはない。

佐藤によれば、ソ聯が崩潰した結果、勝利した資本主義が何はばかることなく「資本の論理のみによって労働者から搾取、收奪を強めていけばいい」(17頁)恐ろしい時代になつたと言ふ。さすがはマルクスの『資本論』を「資本主義分析の本としてはきわめてすぐれている」(140頁)と賞賛するだけあつて、マルクスの誤りをそのまま繰り返してゐる。

マルクスは、製品の價値は勞働者が生み出すのだから、それを賣つて得られた代金は勞働者が受け取るべきであり、カネだけあつて何もしない資本家が利潤をかすめ取るのは搾取だと非難した。この誤つた考へを勞働價値説と呼ぶ。しかし資本家は何もしないのではなく、事業に失敗すれば返つてこない元手(資本)を、リスクを負つて提供してゐる。利潤は資本家のこの役割に對する正當な報酬であり、搾取でも收奪でもない。そもそも企業が脅迫や暴力で強制勞働をやらせるのでない限り、企業と勞働者は互ひに必要とする勞働サービスと賃金を自發的に交換してゐるのである。

勞働者は賃金が安くて不滿かもしれない。しかし賃金を上げるには、經營者と勞働者がそれぞれ工夫努力し、消費者に多くの製品を買つてもらふしかない。佐藤は、以前は國家が介入して賃金の下落を防ぎ、「資本の暴走に一定の歯止めをかけていた」(16頁)と指摘するが、このやうな介入をおこなふと、高すぎる賃金を拂ひたくない企業は雇傭を増やすことに愼重になるから、むしろ失業が増え、職のある者とない者の經濟格差が廣がる。これこそ國家の暴走である。

佐藤は、冷戰終結後、世界で「新・帝国主義」が廣がつてゐると言ふが、これも的外れである。もしある國が脅迫や暴力で自國製品を他國に無理やり買はせたなら、相手國の消費者・納税者の財産を不當に奪ふことになるから、戰爭で相手國の領土を奪つた十九世紀後半から二十世紀初めの帝國主義と似てゐると言つてもよいだらう。兵器や原發の賣り込みには國際的な政治壓力がつきまとふ。

ところが佐藤が「新・帝国主義」と呼んで非難するのは、政府がかかはる取引ではない。「世界中でヒト・モノ・カネの移動が自由化」(14頁)して活溌になつた、通常の商取引なのである。通常の商取引、すなはち自發的な交換に基づく資本主義を、強制的な收奪で成り立つ帝國主義と同列に扱ふのはをかしい。かうした見方を批判して、經濟學者ヨーゼフ・シュンペーターは「純粹な資本主義世界に帝國主義の衝動(imperialist impulses)が育つ良い土壤はない」(『帝國主義と社會階級』)と言ひ切つてゐる。

帝國主義を資本主義と同一視する誤解は、やはりマルクス主義から來てゐる。レーニンは『帝國主義論』で、マルクスの思想を踏まへながら、帝國主義は資本主義が達した「最高段階」とみて、これを攻撃した。ただしレーニンの主張には鋭い部分がある。マルクスは自由な資本主義そのものを攻撃したが、レーニンがより強く批判したのは、帝國主義といふ、大企業が國家と結託し、戰爭を利用して獨占的な利益をむさぼる仕組みであつた。つまりレーニンは、國家と企業の癒着體制こそが最大の問題であることを正しく見拔き、それを革命によつて打破することを目指したのである。
帝国主義論 (光文社古典新訳文庫)
一方佐藤には、國家批判の精神は皆無に等しい。「国家がなくても、社会が機能すれば人間は生きていける」(20頁)と述べたかと思ふと、「個人で生き残ることと、国家や社会が生き残ることとの連立方程式……個人だけでは生き残れない」(226頁)と矛盾したことを言ひ、さらに「日本が生きのびるために国家を強化する」(179頁)やう推奬し、舉句の果てに「食うか食われるかの帝国主義的外交ゲームの中で、日本が少なくとも食われないようにすることが、政治家の責務なのです。そこにしか、日本とあなたが生きのびる道はありません」(40頁)と御託宣を垂れる。生き延びたければ、默つて國家に從へと言はんばかりである。

しかし國家は個人の財産を、ときには生命さへをも、強制的に、しかも合法的に奪ふことのできる存在である。佐藤は資本主義の「暴走」の恐怖を煽り立て、國家がそれから守つてくれると信じさせたがつてゐるが、私たちにとつて危險なのは資本主義ではなく、國家である。企業との癒着も國家の權限が大きいほど起こりやすい。齒止めをかけるべきは、國家の暴走なのである。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)