市場は弱肉強食か

市場經濟は「弱肉強食」だとよく批判される。だがこれほど歴史的な事實に反する誤解はない。西洋法制史を專門とする山内進が著した『文明は暴力を超えられるか』(筑摩書房)を讀めば、それがよくわかる。
文明は暴力を超えられるか
市場經濟以前の中世歐州社會は、どのやうなものだつたか。山内が紹介する歴史學の文獻によれば、そこでは「掠奪・戦闘・人間狩り・狩猟、それらすべてが……社会構造に応じて公然と認められた生活必需物の一部を占めていた」(161頁)。掠奪はごく日常的に見られた。「ただの泥棒と山賊と軍隊との区別ですら、ごく曖昧だった。租税と掠奪との区分も明白ではない。力ある者は近隣に出征し、住民を殺し、火を放ち、人とくに女性と子供そして物を奪った」(163頁)

とりわけ權力者や強者にとつて、掠奪は「人生の喜びに欠かせぬ要素」(161頁)ですらあつた。領主の大多數はほとんど野盜と變はらず、「商人や旅人に対して追い剥ぎを行い、支配下にある農民や市民に対して『無法な税』や『とてつもない通行税』を課していた」(162頁)。

このやうな暴力と掠奪による「経済活動」は、近代に入ると表向き影を潛め、平和的で生産的な經濟活動に轉換することになる。この轉換に精神面で大きな役割を果たしたのは、英國の思想家ジョン・ロックだつた(169頁)。ロックは米大陸の開拓について、戰爭で敗者の土地を奪ふことを否定し、土地を圍ひ込み、耕すといふ勞働が所有を生み出すと説いた。

ロックの思想は、米大陸での英國の植民地政策に都合のよいものだつたと批判されることもあるが、「〔經濟學の祖とされる〕アダム・スミスに先駆けて、中世ヨーロッパにおいて一般的だった掠奪から生産へと、経済の本則を決定的に転換させた」(171頁)ことは偉大だと山内は評價する。かうした思想的な轉機を經て、「経済は平和的なものとなっていった」のである。山内は「個人の自由と安全をもたらしたのは商業と製造業の発展である」(162-163頁)と述べる。

かうした歴史の事實を踏まへれば、「弱肉強食」といふ言葉がふさはしいのはむしろ市場經濟以前の社會であり、近代に生まれた市場經濟はそれと正反對の、平和的性格のものと理解できるはずだ。市場經濟を「弱肉強食」と罵る人々は、ぜひ本書によつて市場經濟以前の社會の實像を知つてもらひたい。

ただし惜しい點がある。それは近代以降、「暴力を独占する国家と平和的な社会が成立することによって、人びとの生活は飛躍的に安全になる」(269頁)といふ山内の見方である。これは二つの誤りを含んでゐる。

第一に、國内で掠奪は終はつてゐない。その張本人が國家である。中世領主が市民に「とてつもない通行税」を課したのと同じく、近代國家も課税によつて個人の財産を奪ひ續けてゐる。もちろん現代の民主主義國家において課税は合法だが、多數決で決まつたことが正しいとは限らない。

これに關聯して言へば、山内によると、評論家の三浦雅士は「国際金融資本がアジア経済等を餌食にし、世界を駆け巡っている状況」を指して、「中世の掠奪社会」の「再現」と呼んだといふ(172頁)。おそらく三浦は誤解してゐると思はれる。自由な金融取引そのものは平和な合意に基づくものであり、問題はない。もし大量のお金が經濟の異常な過熱やその反動による信用危機を招くことがよくないと言ふのであれば、それは大量のお金を創造した國家に責任がある。國家がお金を創造するのは、課税といふ露骨な手段を避け、ひそかに市民の持つお金の價値を薄め、自身の支出に充てるためである。要するに、市民生活を脅かす根源は、ここでも國家による掠奪なのだ。

第二に、むしろ「飛躍的に」大きくなつた危險がある。戰爭だ。山内自身も認めるやうに、近代戰爭に伴ふ暴力はそれ以前のものよりも「はるかに大規模」で、「人的にも物的にも多大な被害を社会にもたらした」(272頁)。これは科學技術の進歩だけでなく、國家が國内で暴力を獨占し、國民を戰爭に否應なく總動員するやうになつた影響が大きいだらう。

以上二點について、山内が見落としたのは、「暴力を独占する国家」と「平和的な社会」は結局兩立できないといふ事實である。

國家がかつての粗野な盜賊と違ひ、露骨な暴力で市民の財産を奪はなくなつたのは、市民にある程度自由に經濟活動を行はせ、その上前を課税といふ手段で定期的に召し上げたはうが效率がよいと學んだからにすぎない。しかしこれも暴力をちらつかせた掠奪であることに變はりはない。脱税すれば投獄されてしまふ。

また、國家は自身の存立を脅かす状況に置かれれば、たちまち暴力的な本性をあらはにする。その牙が國内に向けられるのが反政府運動や革命の彈壓であり、國外に向けられるのが戰爭である。どちらも一般市民の安全を危ふくする。たとへ侵掠を防ぐ自衞戰爭であつても、それによつて生じる犠牲を度外視して無理やり戰鬪を續ければ、本末顛倒である。だが國家の場合、日本の敗戦時も示すとほり、國民の生命よりも自身の存續を優先しようとするものだ。

暴力で個人の權利や自由を奪ふのは國家だけではない。しかしその収奪の規模が、歴史的に見て、他の何より大きいことも確かである。少なくとも國家といふ盜賊の末裔が巨大な規模で存在する限り、暴力に勝る者が弱い者を餌食にするといふ正しい意味での「弱肉強食」は終はらず、眞に平和な社會は訪れない。それは本書に記された歴史的事實からだけでも學べるはずである。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)