保守は左翼と同根

保守主義者といへば、左翼とは水と油の關係だと信じられてきた。ところが實際には、左翼と似た主張が少なくない。それが顯著なのは經濟問題で、自由貿易に反對したり、規制緩和を批判したり、大きな政府を擁護したりと、ほとんど左翼と變はらない。しかしこれは不思議なことではない。なぜなら保守主義は左翼を根本から批判する理論をもたないばかりか、思想的に相通じる面すらあるからである。
ハイエク - 「保守」との訣別 (中公選書)
このことを明確に指摘したのは、經濟學者で哲學者のフリードリヒ・ハイエクである。ハイエクはみづからが保守主義者と呼ばれることに異を唱へてわざわざ「なぜわたくしは保守主義者ではないのか」と題する論文を書き、自分がよつて立つのは自由主義であり、それが保守主義といかに異なるかを論じた。最近出版された楠茂樹・楠美佐子『ハイエク――「保守」との訣別』(中公選書)はハイエクの主張をわかりやすく解説するとともに、左翼以上に自由を侵しかねない保守主義の危ふさに警鐘を鳴らしてゐる。

楠(共著者をまとめてかう呼ぶことにする)が指摘する(202頁)やうに、ハイエクは傳統や慣習といつた、自生的に生成され安定化したルールや制度の存在意義を強調し、これが保守的な色彩を帶びる一因となつた。その主義主張が英國では保守黨、米國では共和黨と近かつたことも、保守のイメージに結びついた。

しかしハイエク自身は保守派のイメージを歡迎しなかつた。ハイエクの著書『自由の条件』は、保守黨出身の元英國首相マーガレット・サッチャーがバイブルとしたことで知られるが、皮肉なことに、ハイエクが非保守主義宣言をした上記論文は、この本に收められてゐる(春秋社版全集第I期第7卷所收)。
自由の条件3 ハイエク全集 1-7 新版

保守主義は無内容
ハイエクが言ふやうに、保守主義とは「激しい変化に反対する……態度」である(204頁)。だから社會主義が世界に激しい變化をもたらさうとした時代には、保守主義は社會主義を敵視し、社會主義を共通の敵とする自由主義と共鬪した。しかし「その連携は実は脆い基盤の上に成り立っている」(212頁)。なぜなら楠が補足する(205頁)やうに、保守主義者にとつて大切なのは「現状を保ち守ること=変えたくないこと」であり、「変わろうとする方向性には関心がない」からである。「極端に言えば、保守主義それ自体は無内容」(212頁)なのだ。

これには「保守主義には多くの優れた理論家がゐる」といふ反論があるかもしれない。しかしそれは幻想にすぎない。ハイエクが指摘する(219頁)やうに、「保守主義は社会秩序がいかに維持されるかに関する一般的概念をつくりだすことについて非常に無能であったため……自ら自由主義者をもって任じた著述家にほとんど例外なく援助を求めている」。代表的な保守思想家としてしばしば名前のあがるマコーリー(英國の歴史家・政治家)、トクヴィル(フランスの政治思想家)、アクトン(英國の歴史家・政治家)は「自分たちを自由主義者と考えたし、それは正当であった」。保守主義の父として崇められるバーク(英國の哲學者・政治家)でさへ「最後まで旧ホイッグ党〔自由黨の前身〕員としてとどまった人物であり、トーリー党〔保守黨の前身〕員とみなされることを考えただけでぞっとしたことであろう」。つまり保守主義の理論的に優れた部分とは、自由主義の借り物にすぎないのである。

保守主義には自前の理論がない。だから社會問題について判斷しなければならない場合、ハイエクが言ふ(206頁)ように、自由主義と社會主義といふ「両極端のあいだのどこかに真理があるはずであるとの信念に従ってきた」。その結果、保守主義者は「いつのときもいずれの方向にせよ、極端な動きを示したほうへ自分たちの位置を移してきた」。たとへば自由主義が+50、社會主義が-50の時代には0を選擇するが、自由主義が+50のままで、社會主義が-100になるとその中間の-25を選ぶ。すなはち、極端な社會主義に妥協して、より社會主義的な道を選擇する。これでは社會主義の齒止めにはならない。

國家主義への傾倒
それでも、たんに無原則で日和見主義であるだけならまだ害は少ない。だがハイエクは、保守主義はより大きな害惡を發生させる恐れがあると指摘する。自由主義者と違ひ、保守主義者は「われわれの文明を変化させている思想はいかなる国境をも顧慮しないという事実」(216頁)を受け入れることができない。このため國際主義に敵意を抱き、國家主義に傾倒する。これは社會主義へと轉落するきつかけになりうる。

また保守主義者は、自分の道徳的信念を他人に強ひる資格があると自身をみなしがちな點でも、社會主義者と共通する。だから社會主義からの轉向組は、學生運動家出身の日本の一部保守派智識人や元トロツキスト米國ネオコンのやうに、保守主義に流れやすい。楠はハイエクを補足して「ある価値〔社會主義〕を他人に強制しようとしてきた者がその価値を放棄するとき、新たなより所となる価値〔保守主義〕を他人に強制しようとする」と述べ、かう指摘する。「その点では社会主義保守主義は同根ということになる」(211頁)

さらに保守主義者は、ハイエクが言ふやうに「優秀な人物……は公共の問題についてほかの人よりも大きな影響力をもつべきである」(同)と考へるが、これも社會主義のエリート主義と變はらない。「優秀な人物」が受けついできた價値觀が社會主義のそれであれば、保守主義と社會主義は一致することになる。

ベルリンの壁崩潰とともに社會主義の信用は失墜したが、楠が指摘する(224頁)とほり、左翼勢力は「福祉国家論に棲家を変え、自由資本主義体制の中に潜伏するようになった」。一方、保守派は社會主義の衰頽によつて、いまや自由主義と共有できる價値觀を失ひ、「むしろケインズ主義的福祉国家と整合的であるかもしれない」。福祉國家は、ハイエクが自由にとつて社會主義國家と同じかそれ以上の脅威とみなした對象である。反左翼の假面をかぶり、福祉國家を肥大させてきた日本の保守派政權が「小さな政府」を實現してくれるといまだに期待してゐる人々は、ハイエクを讀んで頭を冷やさなければならない。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)