大きな政府の幻想
市場に積極的に介入する「大きな政府」は、經濟の繁榮を妨げる。大きな政府の極致である社會主義は、ソビエト聯邦や舊東歐諸國の崩潰後、さすがにほとんど支持されなくなつたが、「ほどほど」の大きな政府である福祉國家(現在の日本、米國、多くの歐州諸國)については、政治信條の左右を問はず、いまだに信奉者が多い。しかし、たとへほどほどであつても、市場への介入が經濟の足を引つ張ることに變はりはない。それどころか、福祉國家は本質的に、政府の統制がしだいに強化され、結局は社會主義に行き着く危險をはらんでゐる。
社會主義、福祉國家といふ二つの大きな政府を早くから徹底的に批判したのが、オーストリア出身の經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881-1973)である。最近邦譯が出版された、弟子のイスラエル・カーズナーによる『ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス――生涯とその思想』(尾近裕幸譯、春秋社)で、その主張が手際よく紹介されてゐる。
社會主義
まづ社會主義である。ミーゼスは1920年、社會主義の計劃經濟を批判する論文「社会主義共同体における経済計算」を發表した。1920年といへば、ロシア革命で史上初の社會主義政權が樹立されてまだ三年しかたつてゐない。この早い時期にミーゼスは、社會主義者が主張する合理的な經濟計劃は不可能であると斷じた。
その根據はかうだ。合理的な經濟計劃を行ふには、事業の健全性を判斷する損得の計算が必要である。そのためには、さまざまな經營資源(土地、原材料、機械、勞働力など)に市場價格がなければならない。ところが社會主義では、定義上、これらの資源は國有化されてゐるから、市場價格が存在しない。經營資源に市場價格がなければ、どれほど勤勉で獻身的な中央計劃者でも、自分の判斷が合理的かどうかを知ることができない。
社會主義經濟は努力や工夫をすればなんとかなるものではなく、まさにその原理上、合理的に行ふことは不可能であるといふ根源的な批判をミーゼスは突きつけたのだ。しかもこれは現在主流の經濟學とは異なり、經濟統計を實證的に「分析」した結果ではなく、純粹な論理から導かれたものである。カーズナーは、ミーゼスの根本的な社會主義批判を「幻想を粉砕した」(186頁)と表現する。
福祉國家(介入主義)
次に福祉國家である。福祉國家にみられる「ほどほど」の大きな政府の政策を、ミーゼスは介入主義と呼ぶ。とくに1930年代の大恐慌後、西側の資本主義世界では、自由放任主義の「危險」や「行き過ぎ」に齒止めをかけると稱して、政府の市場介入が聲高に唱へられるやうになつた(實際には大恐慌の原因は自由放任經濟ではなく、政府の市場介入だつた)。しかしミーゼスはそれに異を唱へた。
資本主義と社會主義を組み合はせた混合經濟が實行可能な「第三の道」だといふ考へは神話にすぎない、とミーゼスは信じてゐた。介入主義政策は「消費者の選好を無視し、そのために消費者の目的を実現できないために失敗する羽目になるか、あるいは、政策立案者自身がまったく意図しない困った結果をもたらす」(189頁)。たとへば、最低賃金法や、勞働市場に介入する勞働組合びいきの法律は、失業を生み出す。擴張的な金融政策は不況を引き起こし、貧困層はもちろん、貯蓄や他の資産を保有する人々を苦しめる。ケインズ的完全雇傭政策は、結局、人々を不幸にする物價騰貴を引き起こす。
だが介入主義がもたらす最惡の事態は、他にある。政府による經濟の統制が不可避的にどんどん強化されることだ。たとへば、ある商品市場の價格が「高すぎる」と感じた政府は、價格の上限を設定する。これは經濟學の初歩で學ぶとほり、その商品の不足を引き起こす。するとこの不足に對處するため、政府は配給を始めたり、商品の原材料市場にまで價格統制を擴大したりすることになる。同種の統制がさらに廣がれば、介入主義體制は社會主義に變貌する。「福祉国家というのは、市場経済を着実に社会主義へと転換するものに過ぎない」(192頁)とミーゼスは臆せず述べた。
ドイツ型社會主義(ファシズム)
ただしこの場合の社會主義は、ミーゼスの主著『ヒューマン・アクション』(村田稔雄譯、春秋社)での分類にしたがへば、「ロシア型社會主義」ではなく、「ドイツ型社會主義」である。ロシア型社會主義が「全く官僚主義的で……すべての工場・商店および農場は、形式上国有化されて」ゐるのに對し、ドイツ型社會主義は「生産手段の私有を名目上表面的に保持して」ゐるものの、「もはや企業家は存在せず、企業経営責任者(ナチの用語でBetriebsführer)のみが存在している。これらの企業経営責任者は……すべて政府の生産管理最高官庁が出す命令に、無条件で服従しなければならない」(同書、760頁)。
日本人の多くは、ソ聯や舊東歐、北朝鮮などの失敗が明らかになつた現在、先進國が社會主義に逆戻りすることなどありえないと信じてゐる。しかしそれはロシア型社會主義の話であつて、福祉國家からドイツ型社會主義への距離はそれほど遠くない。
最近米國では企業救濟や國民皆保險を推し進めるオバマ大統領が保守派から「社會主義者」と非難され、これにリバタリアンの經濟學者トーマス・ソーウェルが「社會主義者ではなくファシスト」と異論を挾んでゐるが、これは定義の問題にすぎない。ソーウェルがもとづく標準的な定義によれば、ファシズムとは生産手段(經營資源)の私有を名目上のみ認める體制で、ミーゼスのいふドイツ型社會主義と同じだ(ナチスの正式名稱は「國家社會主義ドイツ勞働者黨」)。米國同樣、介入主義にのめり込む日本や歐州も、社會主義(ファシズム)への危險な道を突き進んでゐると言はなければならない。
サミュエルソンの豫測
さて、ここで注意すべきは、社會主義に合理的な計劃は不可能だと斷言したミーゼスも、「社会主義経済が、たとえ数十年間であっても存在できない、といったわけではない」(185頁)ことである。意思決定が合理的でなくても、「存在」し續ける程度のことはできる。だからソ聯が長期にわたつて存在しても「ミーゼスはまったく動揺しなかった」(185頁)。それでも結局、合理的でない判斷を重ねたソ聯經濟はその非效率から成長が阻害され、國民を貧困で苦しめ、最後は崩潰して七十年の歴史に幕を閉ぢた。
一方、實證主義的な主流派經濟學を代表する米國のポール・サミュエルソンは、ソ聯經濟にきはめて樂觀的だつた。岩波書店から邦譯も出てゐた有名な經濟學教科書の1961年版で、ソ聯のGNP(國民總生産)は1984年から1997年の間に米國を追ひ拔くだらうと豫測した。サミュエルソンは版を改めるたびに繰り返し同樣の分析を載せたが、米ソ逆轉の時期だけがいつも先に延ばされ、1980年版ではたうとう2002年から2012年の間になつてしまつた。
アレックス・タバロックによると、「その後の版でサミュエルソンは豫測を外したことを認めず、ソ聯經濟は『天候不順』("bad weather")だと述べる以外、ほとんど言及しなかつた」。數少ないコメントの一つが、ソ聯經濟が崩潰しかけてゐた1989年の版で平然とかう記したことだ。「多くの懐疑論者が信じてゐたのとは逆に、ソビエト經濟をみれば、社會主義の計劃經濟が機能し、成長もできる(can function and even thrive)ことは明らかである」
このあまり名譽といへないエピソードで思ひ出すのは、歐州經濟危機が今ほど深刻でなかつた2010年春、日本のある經濟評論家が出版した本で、わづか三十年のデータをもとに、政府の財政擴大は經濟成長を妨げず、むしろ促すと主張したことだ。財政赤字を二十年以上續けても立派に經濟成長を遂げてゐる例として舉げた國のうち、堂々の成長率トップはギリシャ。その他、上位にはポルトガル、スペイン、キプロスなどが名を連ねた。ある意味、なんとも興味深い實證分析の成果である。
GDPのバイアス
政府が介入主義を續けても、すぐにGDP(國内總生産)の減少につながるとは限らない。もともと介入主義のバイアスがかかつたGDPは定義上、政府支出を増加要因としてカウントする仕組みになつてゐるからだ。上述のやうに、社會主義のソ聯ですら、一時は米國を追ひかけて經濟成長したのである。だがその陰では、市民が劣惡な生活を強ひられ、最後はミーゼスの理論どほり、經濟全體が潰滅した。日米歐の介入主義經濟は、資本主義の部分がまだ殘つてゐるものの、放置すれば、ミーゼスの警告どほり社會主義(ファシズム)が到來する可能性は否定できない。
大きな政府は社會を豐かにせず、むしろ貧しくする。それは社會主義だらうと福祉國家だらうと、違ひはないのだ。私たちは、大きな政府が繁榮をもたらすといふ幻想から、完全に目覺めなければならない。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)
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