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國家崇拜の醜惡

人間と自由

國家とは人間の形成する集團の一つにすぎない。ところが近代以降、社會における國家の存在が異樣に肥大した。それが最も鮮明になるのは戰爭のときである。戰時には、國家を超える價値觀を信じることが許されず、逆らふ者には賣國奴の罵聲が投げつけられる。醜惡の極みである。しかし多くの人々がその醜惡な國家崇拜に取り憑かれやすいこともまた、苦い事實である。
外科室・海城発電 他5篇 (岩波文庫)
9月7日は作家、泉鏡花(1873-1939〔明治6-昭和14〕)の命日、鏡花忌である。鏡花といへばリアリズムの對極にある幻想的な作風で、戰爭の惡を糺彈する反戰文學とはおよそ縁遠く見える。しかし實際には、戰爭の非人間性を扱つた小説をいくつか殘してゐる。これらの作品は内容が不穩當とされてか、戰中刊行の全集には收録されず、戰後版に追加された別卷に補遺として收められた。具體的には「豫備兵」「琵琶傳」「凱旋祭」などだが、なかでも作者の思想が直截的に表現されたのが、今囘紹介する「海城發電」(岩波文庫『外科室・海城発電』、青空文庫などに所收)である。

この作品で描かれるのは、日清戰爭中の出來事である。日清戰爭(1894-1895〔明治27-28〕)は、のちの日露戰爭の陰で目立たないが、近代日本史上初めての本格的對外戰爭であり、軍國主義の確立に大きな役割を果たした。

日露戰爭時と比べた特徴の一つは、反戰論がほとんど見られなかつたことである。福澤諭吉は、この戰爭は文明と野蠻との戰ひであり、文明の義戰であると論じたし、日露戰爭では反戰論を貫くことになる内村鑑三も、日本は東洋における進歩主義の戰士であり、ゆゑに戰爭は義戰だと主張した。北村透谷キリスト教徒が創設した日本平和會は、數少ない反戰組織の一つだつたが、日清戰爭が起こると、文明への義戰として支持する會員が現れ、活動が續けられなくなつた。

戰爭を支持したのは智識人だけではない。日清戰爭を題材にした芝居の上演中、激高した觀客が清國兵に扮した俳優に毆りかかるなどの事件が相次いで發生した。民衆も「現実とフィクションの区別がつかなくなるほど……戦争に熱狂していた」(小松裕『「いのち」と帝国日本』〈日本の歴史14〉小学館、34頁)のである。

かうした熱狂的な雰圍氣の中、鏡花は1896〔明治29〕年、「海城發電」を雜誌に發表する。舞臺は日本軍が占領した支那遼寧省の海城。捕虜になつた赤十字の日本人看護員が清國の傷病兵の看護に盡力し、感謝状をもらつて歸る。日本軍の軍夫(軍の雜役をする人夫)から敵情を訊ねられた看護員は、休む間もなく看護に沒頭したから敵情を探る餘裕などなかつたと答へ、これに激昂した軍夫たちは「國賊逆徒、賣國奴、殺せ、撲れ」と叫ぶ(岩波文庫版、176頁。正漢字に變更)。軍夫の頭である百人長は看護員に感謝状を破り捨てるやう促すが、看護員はこれを拒む。「良心に問へ!」と迫られるが、「やましいことは些少(ちつと)もないです」ときつぱり答へる(177頁)。そして靜かにかう語る。

自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清國だのといふ、左樣な名稱も區別もないです。唯(ただ)病傷兵のあるばかりで、その他には何もないです……毀譽襃貶は仕方がない、逆賊でも國賊でも、それは何でもかまはないです。唯看護員でさへあれば可(いい)……愛國心がどうであるの、敵愾心がどうであるのと、左樣なことには關係しません。(181-182頁)

看護員の主張に反駁できない軍夫たちは腹いせに、看護員を慕ふ病氣の清國人少女を引きずり出して凌辱し、死に至らせる。これを目撃した英國の新聞記者が「海城發」と記し、本國にかう打電するところで物語は終はる。「予は目撃せり。日本軍の中には赤十字の義務を完(まつたう)して、敵より感謝状を送られたる國賊あり。しかれどもまた敵愾心のために清國(てきこく)の病婦を捉へて、犯し辱めたる愛國の軍夫あり。委細はあとより」(191頁)

國家崇拜に憑かれた者は、國家に忠誠を盡くすことはそれだけで稱へられるべき道徳的善である一方、國家に背くことはそれだけで許しがたい道徳的惡だと信じ込んでゐる。だから作中の軍夫のやうに、彼らが振りかざす最高の徳目は愛國心であり、同意しない者に投げつける惡罵は國賊、賣國奴である。「日本人ではない」といふ罵倒もある。「海城發電」で、ある軍夫は看護員をかう中傷し、罵る。「支那(チャン)の探偵(いぬ)になるやうな奴あ大和魂を知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじやあねえぞ、日本人のなかまでなけりや支那人(チャン)も同一(おんなじ)だ」(185頁)

しかし國家に忠誠を盡くすかどうかは道徳的善惡と關係ない。鏡花がさう考へてゐることは、看護員の態度を肯定的に描いてゐることからもうかがへるが、さらに明瞭に表れるのは英國人記者の電文である。すでに引用したとほり、そこには「敵より感謝状を送られたる國賊」「清國の病婦を捉へて、犯し辱めたる愛國の軍夫」といふ反語表現が對照的に竝べられてゐる。敵味方の區別なく怪我人を看護する眞摯な人物が國賊と貶められ、敵國民といふ理由だけで少女を凌辱して恥ぢない獸のやうな輩が愛國者と稱へられる。こんなことは、もし國家がまともな道徳的規準であるならありえない。

經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、「國家は神である」と言ふ人間は武器と牢獄を崇拜してゐるのであり、國家崇拜は力の崇拜である("The worship of the state is the worship of force.")と斷じた。「海城發電」で愛國心を振りかざす軍夫たちがおぞましい暴力に訴へたことは、ミーゼスの言葉の正しさを象徴的に物語る。

それでも看護員の信念を最後まで變へることができなかつたことは、暴力の勝利を信じない者にとつて希望である。國賊、賣國奴と罵聲を浴びながらも毅然とした看護員の描冩からは、「力の崇拜」を拒否する鏡花自身の覺悟が傳はつてくる。「何らか固き信仰ありて、譬(たと)ひその信仰の迷へるにもせよ、斷々乎一種他の力の如何ともしがたきものありて存せるならむ」(177頁)。日本を舉げて國家主義への道を走り出し始めた時代、「斷々乎」としてそれに異を唱へた知性と勇氣は、今こそ輝いて見える。
(參照サイト「伊豆利彦のホームページ」)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)