2013年上期人氣記事ベストテン

2013年上半期(1-6月)によくアクセスされた記事ベストテンです。

  1. 政府に治安を任せるな
  2. 保守は經濟がわからない
  3. 自衞權はいらない
  4. マクロ經濟學のウソ
  5. 經濟學者の暴走統計學
  6. サンデル教授、ちょっと変ですよ
  7. 平和主義を手放すな
  8. 金保有批判の愚
  9. 新自由主義者の意地
  10. 「資本主義は不安定」のウソ

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

無政府社會は可能だ

「無政府」といふ言葉からたいていの人が思ひ浮かべるのは、おそらく混亂、無秩序といつた状態だらう。實際、國語辭典で「無政府状態」を引いても、「社会の秩序が乱れ、行政機関が全く機能しない状態」と書いてある。しかし、政府(行政機關)が存在しないと社會の秩序が亂れるといふのは、誤つた思ひ込みだ。政府がなくても、社會秩序は保たれる。いやむしろ、政府がない方が、社會秩序はよりよく保たれる。
謎の独立国家ソマリランド
嘘だと思ふ人にぜひ勸めたい本がある。今年最高のノンフィクションとの呼び聲も高い、高野秀行謎の独立国家ソマリランド――そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』(本の雑誌社)である。舞臺は、二十年以上にわたつて文字どほりの無政府状態が續く、アフリカのソマリア。多くの人は、無秩序で混亂した社會を想像することだらう。しかし事實は異なる。たしかに一部の地域は内戰で荒れてゐるが、それでも「人々は政府なしでけっこうちゃんと暮らしを営んでいる」(351頁)し、地域によつては「奇跡」のやうな「平和と治安のよさ」(415頁)を享受してゐるのである。

ソマリアは1991年に内戰が勃發して以來、本書の題名にもあるやうに、ソマリランド、プントランド、南部ソマリアの大きく三地域に分割されてゐる。このうち南部ソマリアは、暫定政權と反對派が戰鬪を繰り廣げ、「無政府状態だとか、内戰でめちゃくちゃになっているとか、そういうことばかりが報道される」(351頁)。だが中心都市モガディショを訪れた高野は「なぜこの町はこんなに栄えているのか」(329頁)と驚く。

南部ソマリアには「中央政府は二十年も存在しないのに、電話会社もあれば、テレビ局もあり、航空会社もある。普通の国にあるものはここにもたいていある」(230頁)。電氣、水道、ガス會社や學校、病院は血縁集團である氏族が經營してゐる。氏族の經營といつても排他的ではなく、學校の場合、ある氏族の支配區の中によその氏族の學校があつてもいいし、別の氏族の子供も生徒として受け入れる(350頁)。

特筆すべきは通信サービスである。電話は「政府の規制が何もなく、各会社が純粋に競争をしているため、料金の安さもサービスの質もアフリカで一、二を争うと言われている」(348-349頁)。高野は、現地の人々が携帶を手放さず、ひつきりなしに電話し合ふのに驚くが、その背景には、市場競爭がもたらす安くて質の良い電話サービスがあつたのだ。インターネットも、モバイルルータースマートフォンの月額料金が日本圓で千圓足らずの安さといふ。

さらに面白いのは、お金の話だ。ソマリアで一般の人々に利用されてゐる紙幣はソマリア・シリングである。興味深いことに、二十年前、無政府状態になり、中央銀行もなくなつてから、シリングはインフレ率が下がり、安定するやうになつた。なぜなら、中央銀行が新しい札を刷らなくなつたからだ。「ボロくなりすぎた札は捨てられるから、総数は減ることはあっても増えることはない。だから、インフレが低く抑えられているのだ」(233頁)

その結果、ソマリア・シリングは「普通に政府が機能している周辺国の通貨より強くなってしまつた」。このため「今ではエチオピア領内のソマリ人地域でも使用されているし、ケニア商人が財テクのためにソマリア領内に入ってシリングを買いあさることもあるという」。紙幣をこれでもかとばかりに發行する中央銀行が存在しなくても、いやむしろ存在しない方が、通貨の價値は安定し、高まるのだ。

しかし何といつても一番興味深いのは、法の仕組みである。國の裁判所はあるものの、高野が詳しく取材したソマリランドの場合、民事事件では百パーセント、刑事事件ですら多くが民間(氏族と宗教組織)に委ねられ、國はごく一部にしか參與しない(220頁)。それでは民間で刑事事件をどう裁くのか。殺人の場合、かつてその代償は加害者の生命だつた。けれども、それでは復讐の連鎖が生じかねない。そこで今では「遺族が望めば加害者に罰を与える代わりにお金を受けとることができる。逆にもし遺族が『カネより気持ちだ』と思ったら、加害者を処刑してもいい」(221-222頁)。加害者自身が賠償金を拂へなければ、氏族が出し合ふ。

高野は、刑罰の種類を政府が押しつけるのでなく、被害者側に選ばせるこの法を「『被害者意識』を最大限に重視している」と高く評價し、ひるがへつて日本の現状についてかう慨歎する。「社会正義を重んじるが被害者の感情やその後の生活などに無頓着な日本人は、ソマリランド人から見れば、よほど現実主義に欠け、人情味に乏しく映るのかもしれなかった」。そのとほりだらう。

優れた法制度に支へられ、ソマリランドは平和と安全を享受してゐる。その安全度は「国土の一部でテロや戦闘が日々続き、毎年死者が数百あるいは千人以上も出ていると推定されるタイやミャンマーよりずっと高い」(500頁)。一般家庭には多くの銃があるが、持ち歩く人は少ない。言論の自由も廣く滲透してゐる。だがかうした實像は世界でほとんど知られてゐない。なぜなら「平和はニュースにならない」(158頁)からだ。

たいていの人は、政府が存在しないと内戰が起こると誤解してゐる。しかし事實は逆だ。政府が存在するからこそ、その權力の獲得をめぐつて爭ひが生じるのだ。ソマリアの三地域のうち、暫定政權のある南部ソマリアで戰鬪が絶えないのは偶然ではない。暫定政權は國連や歐米諸國に後押しされてゐるから、内戰の責任は國連や歐米諸國の介入政策にあるともいへる。介入政策と縁の薄いソマリランドのジャーナリストはかうつぶやく。「ソマリランドは今の状態がいちばんいいのかもしれない……利権がないから汚職も少ない。土地や財産や権力をめぐる争いも熾烈でない」(125頁)

もちろんソマリアは地上の樂園ではない。平均壽命や幼兒死亡率、一人あたりGDP(國内總生産)などは明らかに改善してゐるものの、先進諸國に比べれば豐かさの水準はまだ低い。しかしだからといつて、無政府社會は政府のある社會より劣ると決めつけるのは的外れである。先進諸國の豐かさは、長い年月をかけて積み上げた、自由な資本主義の成果だからだ。資本主義の歴史が淺いソマリアと單純比較するのは不適切である。

ソマリアが明らかにしたこと、それは、無政府社會は「〔政府のある〕世界の多くの国と同じようにちゃんと機能」(136頁)するといふ事實である。秩序があり平和な無政府社會は實現可能なのだ。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

自由主義者かく語りき

電子書籍自由主義者かく語りき――リバタリアンのエッセイ集』より、「はじめに」を転載〕

現代文明というものは、洋の東西を問わず、知識人の間ではなはだ評判が悪い。現代文明の「物質主義」「能率主義」「享楽主義」「科学万能主義」などを口を極めて罵る知識人は枚挙に暇がない。
自由主義者かく語りき――リバタリアンのエッセイ集 (自由叢書)
最近日本の出版界でブームになっているドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェはその先駆であり代表でもある。ブームの火つけ役になった本は、なんだかニーチェの狷介なイメージからほど遠い、人を励まし勇気づけるような言葉を集めたものらしい。知識人は、思想の本質を知りもしないで有名哲学者をありがたがる大衆を笑うかもしれない。しかし原始人の野蛮な衝動を軽率にも賞賛したニーチェ本人や、その尻馬に乗って現代文明を罵倒する知識人の罪深さに比べれば、大衆の愚かさなど取るに足らない。

経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、自由主義者リバタリアン)の立場から、ニーチェやその追随者たちを次のように批判している(村田稔雄訳『ヒューマン・アクション』春秋社、192頁以下)。彼らはこう主張する。かつて人間は自然本能に駆られて戦い、殺し、破壊する猛獣であった。ところが文明は、人間をその動物的起源から遠ざける不自然な人道主義によって、本能と欲望を抑えようとした。人間が自己の動物性を恥じ、退廃的な弱虫になったのは、文明のせいである。人間は弱虫の恨みが形づくる奴隷の倫理を捨て、強者の倫理を取り戻さなければならない、と。しかしこの主張は誤りである。なぜなら、文明は人間を弱くしたどころか、生存競争で生き残るチャンスを増やしたからである。

文明は、人間が他の生物との生存競争で自己を守れるようにしただけでなく、生存手段を増大させ、普通の人々の身長を伸ばし、機敏にし、多才にし、平均寿命を延ばし、地球を支配させた。先史時代の粗野な穴居人が夢想もしなかった水準まで、生活水準を引き上げた。ニーチェやその追随者のように、肉体の強さや闘争心など原始人に役立つ特長のみを、人間性にとって自然かつ妥当であると称し、文明人が切実に必要としている才能や技能を、退廃や生物学的劣化として非難することは、恣意的であり、進化論の原理にも反する。「先史的祖先の身体的・知的特徴へ逆戻りするよう人間に勧めることは、直立歩行を放棄し、再び尾を生やすように求めるのと同様に、合理的でない」

そしてミーゼスはニーチェに痛烈な一撃を加える。「ニーチェ精神障害を起こす前でさえ、病気がちであったので、彼に耐えられる唯一の気候は、〔スイスの〕エンガディン渓谷やイタリア一部の地方における気候だけであった。文明社会が、人生の荒波から、彼の繊細な神経を守ってやらなかったならば、著作を書き上げることはできなかったであろう」

ニーチェのすべてを否定するつもりはない。しかしニーチェやその追随者による強者崇拝と現代文明批判に、ミーゼスが鋭く指摘したような矛盾があることは、もっと知られるべきだろう。ナチスゲルマン民族至上主義に利用されたといわれるニーチェの強者崇拝を、いまでもそのまま支持する人は少ないかもしれないが、「現代文明が人間をダメにする」という主張そのものは根強い人気を保っているからだ。

なるほど、現代文明は「物質主義」「能率主義」「享楽主義」「科学万能主義」などの風潮を助長する側面があるかもしれず、それらは一部の人々にとって我慢ならないものかもしれない。しかしもしそうなら、それらの風潮から距離を置く生き方を自分が選べばよい。現代文明を可能にした自由な社会では、その選択が妨げられることはないのだから。ところが現代文明を批判する人々はしばしば、気に食わない風潮を抑え込むために、政治の力で自由を規制しようとする。これは自分たちの価値観を他人に強制し、文明の恩恵を奪う暴挙でしかない。

電子書籍シリーズ「自由叢書」の三冊目となる本書は、既刊二冊と同じく、現代文明の恩恵なくして作成しえなかった。既刊二冊には個人ブログ「ラディカルな經濟學」で公開した記事から書評を集めたのに対し、本書には書評以外のエッセイ類を収めた。通常のエッセイに加え、自由主義の古典から名言を紹介する記事や、リバタリアニズムに対して一般の人がよく抱く疑問に答えるQ&Aを収録。そのほか著者がリバタリアニズムを信奉するに至った経緯を綴った文章や、それ以前に書いた思い入れのある記事「呉智英氏の思い出」なども入れた。第一章には、月刊時評紙「時事評論石川」に寄稿した、ブログでは未公開のエッセイ二本も収録した。

本書のタイトル『自由主義者かく語りき』は、評論家・呉智英さんの単行本第一作『封建主義者かく語りき』(現在は双葉文庫)から拝借したものである。じつは呉さんの本の題名それ自体、ニーチェの代表作『ツァラトゥストラかく語りき』のもじりだが、私は、上記のごとく思想にいささか問題のあるニーチェからではなく、あくまで長年愛読する呉さんの本から(勝手に)お借りしたつもりであることを強調しておく。

呉さんは昨年上梓した『真実の「名古屋論」』(人間社)のまえがきで、同書は「なんとなく通用している俗論を徹底的に批判することが極上の知的エンターテインメントであることを読者に知らしめる本」だと高らかに宣言している。私も呉さんのように、そしてミーゼスのように、「なんとなく通用している俗論を徹底的に批判」し、それが「極上の知的エンターテインメント」となるような、そんな書き手になりたい。本書を含め今年出版した電子書籍三冊は、その目標に向けたささやかな一歩である。

なお、ブログは歴史的かなづかい、正漢字で書いているが、電子書籍化にあたり表記を改めた。引用元などへのリンクは割愛したので、関心がある方はブログを参照してほしい。

Amazon.comなど海外サイトでの題名は Thus Spoke A Libertarian: Libertarian Essays で、著者名はTakashi Kimura。Amazon.comでのURLは http://www.amazon.com/Thus-Spoke-Libertarian-Japanese-ebook/dp/B00DHJ3YG8/ です)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

復讐のコスト

肉親を殺されたことに對する復讐は、個人の權利である。その權利を國家の死刑制度は奪ひ、個人に復讐を許さない。これは個人の權利を不當に侵すものだから、死刑を廢止し、個人による復讐を復活しなければならない。反對者は「もし復讐が復活すれば、血なまぐさい殺し合ひが際限なく續く」と批判するだらう。しかしそれは杞憂にすぎない。なぜなら復讐にはコストがかかるからである。
山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)
評論家の呉智英は『サルの正義』(双葉文庫)で「人間の基本的人権の一つである復讐権が国家権力によって強奪されたのが死刑制度の本質」と喝破し、「死刑を廃止して復讐を認めるべきだ」(21-23頁)と主張する。一見暴論のやうだが、筋の通つた正論である。

さて、もし復讐が復活したら、社會は血で血を洗ふ復讐劇で滿ち溢れるだらうか。さうはならないだらう。復讐で殺人犯を殺すには、コストを要するからである。

この問題を考へるヒントになるのは、幕末期の實話をもとにした森鴎外の短篇小説「護持院原の敵討(ごじいんがはらのかたきうち)」(1913年發表。新潮文庫山椒大夫高瀬舟』などに所收。ここでは青空文庫から引用。漢字とかなづかひは變更)である。老武士を殺害した強盜を近親者が苦勞の末に探し出し、見事に敵を討つといふ話で、あらすじだけだと單なる武士道賛美のやうだが、さうではない。この作品が發表された大正初年は、日露戰爭(1904-05年)後に忠君愛國思想が強まるなかで、赤穗義士などの敵討を禮賛する風潮が廣がつた時期にあたり、かうした風潮に對する鴎外の懐疑と批判が投影されてゐる。

それが強く表れるのは、老武士の嫡男で、敵を探す旅の半ばで行方知れずとなる宇平の發言である。姿を消す直前、宇平は同行した叔父の九郎右衞門にかう言ふ。「歩いたつてこれは見附からないのが當前(あたりまへ)かも知れません」「をぢさん。あなたは神や佛が本當に助けてくれるものだと思つてゐますか」「龜藏〔強盜の名〕は憎い奴ですから、若(も)し出合つたら、ひどい目に逢はせて遣ります。だが……わたしは晴がましい敵討をしようとは思ひません」

國文學者の尾形仂が指摘するとほり、ここでは「殺害に対して殺害をもって報いるという武士に課せられた当為」「成功性のほとんど望めない探索行に神仏の加護を当てにしてのむなしい時間の浪費と憎悪の持続」「数々の公的規程に縛られた晴がましい報復形式等」が批判されてゐる(『鴎外の歴史小説岩波現代文庫、189頁)。鴎外は、武士の掟といふ免れがたい慣習のなかで精一杯に生きた人々に共感しながらも、淺薄な敵討禮賛への冷ややかな眼を失はなかつた。

この作品で復讐について理解できることは二つある。一つは、國家から事實上強制される復讐は、現代の死刑制度と同じく、個人の權利を尊重することにならないといふことである。宇平は父を殺した強盗を憎み、「若し出合つたら、ひどい目に逢はせて」やらうと思ふ。しかしそのための手段にすぎない敵討が、政府(幕府)の押しつける規程と形式に縛られ、武士道を鼓舞する道具として利用されることに我慢ならなかつた。

もう一つは、復讐にはコストがかかるといふことである。この作品では半年足らずで敵を討てたからまだよいが、もつと長い年月がかかり、最惡の場合、討てないまま野垂れ死にしてしまへば、まさしく「むなしい時間の浪費」でしかない。これは大きなコストである。經濟學が教へるとほり、探索行に費やした金錢だけでなく、その時間を他の行動に充ててゐれば得られたはずの滿足もコスト(機會費用)に含めるべきだからである。

もちろん、かりに今、復讐が復活すれば、現代の發達した交通手段や高度な探索技術を利用できるから、江戸時代のやうな苦勞はしないで濟むだらう。さらに進んで無政府社會が實現し、治安維持が民營化されれば、復讐は個人自身でなく、警備會社といふプロによつて代行されるだらうから、短期間で確實に加害者を捕へることができるだらう。警備會社同士の競爭で料金も下がるだらう。だがそれでも、復讐のコストといふ問題はなくならない。

家計を支へる男性が強盜に殺害され、妻子が殘されたとしよう。もし復讐で殺人犯を殺してしまへば、復讐心は滿たされるかもしれないが、金錢による賠償は得られない。これは復讐を選擇したことに伴ふコスト(機會費用)である。人間はつねになんらかの選擇をしながら生きるから、機會費用から解放されることはない。將來の生活が經濟的に不安であれば、犯人を殺したり自由を奪つたりするのでなく、働かせて賠償金を得ようと考へるのも、人間として自然な感情である。

進化心理學者のマーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンは、國家が個人から復讐の役割を奪ふことができた第一の理由は、復讐が「しばしば権利であるよりは重荷であったから」だと指摘する(蔵研也『無政府社会と法の進化』130頁より再引用)。普通の個人にとつて復讐は經濟的にも精神的にもコストが大きいから、だれかに代行してもらひたいと考へても不思議ではない。國家はその心理につけ入り、復讐の權利そのものを個人から奪つたのである。

個人が國家から復讐權を取り戻せば、金錢賠償よりも復讐心の滿足を選び、權利を行使する人はもちろんゐるだらう。身内を殘虐に殺された場合はとりわけさうだらう。しかし一方で、「憎悪の持続」に困難が伴ふ場合も少なくない。復讐のコストや犯人の悔悛の度合ひを考慮し、金錢賠償を選ぶ人が多數派になつてもをかしくない。民營化された裁判所が下す判決は、「1人殺せば懲役7、8年、3人殺せば死刑」(蔵前掲書、107頁)といつた無根據な國家のルールでなく、人々の多樣な意見の集合により形成される合理的ルールに則つたものとなるから、量刑への不滿から際限のない報復合戰に發展する恐れは小さいだらう。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

「資本主義は不安定」のウソ

資本主義を批判する論者はしばしば、「經濟危機が起こるのは資本主義が本質的に不安定だから」と主張する。しかしそれは間違つてゐる。資本主義に不安定なところはない。經濟危機が起こるのは、資本主義のせゐではなく、政府が資本主義に介入するからである。
貨幣論 (ちくま学芸文庫)
二十年間にわたるロングセラー、岩井克人貨幣論』(單行本は1993年、ちくま学芸文庫版は1998年刊行。以下、引用は文庫版より)でも、この間違つた主張が繰り返されてゐる。岩井は「資本主義の底流」には「本質的な不安定性」があると述べる(237頁)。ただしその不安定性がもたらす「真の危機」(10頁)は、マルクスが資本主義を滅ぼすと主張した恐慌ではなく、ハイパーインフレーションだといふのが、岩井の主張の眼目である。

岩井によれば、恐慌は、人々が商品よりも貨幣、つまりカネをほしがる(その結果、物價が下落する)ことによつて引き起こされる。最近の言葉に言ひ換へれば、デフレ不況だらう。これとは反對にハイパーインフレーションは、人々が貨幣よりも商品を極端にほしがる(その結果、物價が急上昇する)ことによつて引き起こされる。

それではなぜ、ハイパーインフレーションは資本主義にとつて「真の危機」なのか。岩井によれば、それは「貨幣が貨幣であることの根拠そのものが疑問に付され、その結果として貨幣の媒介によって維持されている商品世界そのものが解体してしまう」(187頁)からである。

ここまでの岩井の主張には、ある程度同意できなくもない。しかしここからが問題である。岩井は、資本主義社會における貨幣はもともと、その根據にいつ疑問をもたれてもをかしくないといふ議論を、次のやうに展開する。

資本主義においては、貨幣單位を刻印された銅や鐵や鉛やアルミニウムといつた安つぽい金屬のかけらでも、貨幣單位を印刷されたなんの役に立たない一枚の紙切れでも、さらにはコンピューターの記憶裝置に電磁氣的に書き込まれた貨幣單位の情報コードでも、貨幣として社會的に認められてゐさへすれば貨幣としての機能を果たす。金屬のかけらや紙切れや電磁氣的なパルスといつた、それ自體はなんの商品的な價値をもつてゐないモノが、貨幣として流通することによつて、モノを超える價値をもつやうになる。これは「無から有」が生まれる「神秘」だと岩井は強調する(71-73頁)。

逆にいへば、合理的な根據のない「神秘」や「奇跡」は、いつなんどき消え失せても不思議はない。それがハイパーインフレーションである。「ある晴れた朝」、貨幣を貨幣として受け取つてくれる人がだれもゐなくなり、人々の手元にある金屬のかけらや紙切れや電磁氣的なパルスの痕跡は、それ以上の價値をもたなくなる。「これはSFではなく、現実の世界における可能性なのである」と岩井は脅かすやうに書く(218頁)。おそらく讀者の多くは、「資本主義とはなんと不安定な仕組みなのだらう」と不安を感じるに違ひない。

しかし岩井の議論は誤りである。ハイパーインフレが起こるのは、貨幣の供給量が急激に増えるからである。そして現代において、貨幣の供給量を急激に増やすことができるのは、政府(中央銀行)しかない。ハイパーインフレは、岩井の主張と異なり、資本主義そのものに原因があるのではなく、政府が資本主義による自由な經濟に介入し、貨幣量を人爲的に急増させることによつて起こるのだ。貨幣の量が天文學的に増えなければ、天文學的な値段の商品を人々が買ふことは不可能である。

事實、岩井がハイパーインフレの實例として舉げる(206頁)獨立戰爭直後の米國フランス革命下のフランス、社會主義革命直後のロシア、第一次大戰後のドイツ、オーストリアハンガリーポーランド、第二次大戰後のギリシャハンガリー、共産黨政權確立前のシナ、1980年代の中南米諸國、社會主義體制崩潰後の東歐諸國や舊ソヴィエト聯邦諸國などはいづれも、政府が不換紙幣(金や銀の裏づけが不要で無制限に發行できる紙幣)を大量に發行した結果、引き起こされたものだ。

本書における岩井の主張がもし正しければ、資本主義が自由放任的であればあるほど、資本主義の抱へる矛盾があらはになり、ハイパーインフレは起こりやすいはずだ。ところが世界史上、自由放任的な資本主義が最も盛んだつた十九世紀の歐米では、ハイパーインフレは起こつてゐない。金本位制によつて政府の貨幣供給が制限されてゐたからである。

岩井は文庫版後記で、「世界化された資本主義に真の危機があるとしたら、世界中のひとびとがドルから遁走をはじめ、ドルを基軸通貨とする貿易金融体制が分裂解体してしまう事態」(237頁)だらうと豫測する。ドル危機そのものの豫測は正しい。また米國に限らず、歐州や日本も通貨價値の下落に直面してゐる。だがそれらは、資本主義がもたらす危機ではない。福祉國家の建設や軍事的覇權の擴大といつた政治的目的に充てるため、貨幣を大量にばらまいてきた政府が引き起こす危機なのである。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

高橋是清の虚像

戰前の政治家、高橋是清を崇める聲が政治家や言論人の間で高まつてゐる。高橋が主導した大幅な金融緩和や積極財政は、日本經濟を昭和初期の恐慌から救つたとされる。しかしこれは誤りである。現在のアベノミクスの先驅けである高橋の政策は、その場しのぎのモルヒネと同じで、經濟問題の本質を何も解決しなかつた。それどころか軍部の暴走を財政的に支援し、日本を破滅に追ひやる手助けをしたのである。
アベノミクスの危険な罠 繰り返されるマネーの暴走
出版界でも高橋を持ち上げる本が相次ぐなかで、高橋への嚴しい批判を含む貴重な本が最近出た。北岡孝義『アベノミクスの危険な罠――繰り返されるマネーの暴走』(PHP研究所)である。經濟學者で明治大學教授の北岡は冒頭で、安倍晋三内閣が打ち出した「大胆な」金融緩和について「政府は、財政的に苦しいときに、マネーを生み出す『打ち出の小槌』に手をかける。それにより、経済は大混乱に陥る。そして、そのたびに国民は痛い目にあう」(4頁)と指摘する。

そのうへで、政府が「打ち出の小槌」で經濟に混亂をもたらした過去の例として、明治初期の西南の役後や1974年の大インフレ、1980年代後半のバブルなどとともに、「昭和初期の高橋財政の国債の濫発」を舉げ、次のやうに批判を加へる。「高橋財政は一時的なデフレからの脱却には成功したが、真に日本経済の再生につながったのだろうか。高橋財政が真に日本経済を強靭なものに鍛え上げたのだろうか。むしろ、高橋財政は競争力のない企業の淘汰や金融機関の不良債権の整理などの構造的な問題を先送りした」(188頁)

昭和恐慌の本質的原因は、第一次世界大戰終結後、反動不況で經營不振に陷つた企業や金融機關を、關東大震災のどさくさもあつて政府が救濟しつづけ、經濟の效率改善を妨げたことにあつた。たとへば經濟評論家の高橋龜吉が「わが国では……世界の戦後大反動そのものに必要な整理促進のための措置は何ら講ぜられなかった。むしろ整理を妨げる性格をもつ弥縫的措置を頻発することになったのである」(『昭和金融恐慌史』 講談社学術文庫、74-75頁)と批判したやうにである。

デフレ政策を斷行したため、その直後に藏相として登板した高橋是清との比較でよく經濟音痴呼ばはりされる濱口雄幸(首相)と井上準之助日銀總裁藏相)は、この本質的原因を理解してゐた。北岡は濱口・井上コンビを高く評價し、かう書く。「デフレ政策によって為替レートを安定させ、円の信用回復をはかるとともに、賃金抑制、非効率企業・産業の淘汰を行ない、日本経済の効率性と国際競争力を向上させようと考えた」(183頁)

濱口・井上のデフレ政策は、世界大恐慌のさなかに行はれたため、タイミングが惡すぎたとしばしば批判される。さうかもしれない。しかし高橋財政のやうな「弥縫的措置」を續けるだけでは、將來へのツケを大きくするばかりであることは確かである。

高橋を支持する人は、高橋財政はインフレを起こさなかつたと主張する。しかし北岡はこれを否定する。「1930年代後半からはインフレになった。それでも戦前・戦時中は統制物価で政府が強引に物価を抑え、それを担保するために、国民に配給制を強いた。第二次世界大戦が終わって物価の統制がはずされると、大インフレが起こった」(189頁)

だが高橋財政は、日本にインフレ以上のコストをもたらした。軍國主義を肥大させたことである。具體的には、本國政府の意思を無視した暴走で惡名高い關東軍の軍事費を増強し、シナ大陸での活動を財政的に支援した(關東軍といへば、くしくも高橋がかつて戰費調達に奔走した日露戰爭で、國民が多大な犠牲を拂ひ、滿洲に權益を得た結果、誕生した組織である)。

この點も、濱口・井上とは對照的だ。第一次大戰後、「財政・経済力・資源の現状からみて、もし次期世界大戦が起これば、日本はきわめて困難な状況におちいる」(川口稔『戦前日本の安全保障』、講談社現代新書、179頁)と危機感を抱いた濱口雄幸は、軍縮を信念としてゐた。海軍軍令部の意嚮に反してロンドン海軍軍縮條約に調印し、「統帥權干犯」と非難を浴びたことは有名だ。

濱口はこの信念にもとづき、「金解禁〔金本位制への復帰〕によって軍部の大陸進出を、軍事費の削減によって抑え込もうとした」(189頁)。金本位制の下では、日銀は無制限に紙幣を刷れないので、政府は日銀の贖入をあてにして國債を濫發できない。北岡が言ふやうに、濱口・井上には「『打ち出の小槌』を断固として封印し、マネーに『金』という足枷をはめようという強い意思があった」(183頁)。

一方、北岡は高橋をかう正しく批判する。「軍事費増強による大陸進出を財政面で後押しし……結局は日本経済、いや日本そのものを破綻に追いやる役割を担っただけではないのか」(188頁)。高橋も途中からは、インフレを恐れて緊縮財政に轉換しようとした。しかし「打ち出の小槌」に味をしめた軍部がそれを手放すはずはない。高橋は軍の反感を買ひ、二・二六事件で銃彈に倒れる。

デフレ脱却を大義名分として登場し、「大胆な」金融緩和と積極財政に乘り出した點で、アベノミクスはまさに高橋財政の再來といへる。だとすれば、待ち受けるのは經濟の混亂と、もしかするとさらに惡い事態である。高橋是清の虚像に惑はされ、その誤つた政策を禮賛してはならない。
(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

保守は左翼と同根

保守主義者といへば、左翼とは水と油の關係だと信じられてきた。ところが實際には、左翼と似た主張が少なくない。それが顯著なのは經濟問題で、自由貿易に反對したり、規制緩和を批判したり、大きな政府を擁護したりと、ほとんど左翼と變はらない。しかしこれは不思議なことではない。なぜなら保守主義は左翼を根本から批判する理論をもたないばかりか、思想的に相通じる面すらあるからである。
ハイエク - 「保守」との訣別 (中公選書)
このことを明確に指摘したのは、經濟學者で哲學者のフリードリヒ・ハイエクである。ハイエクはみづからが保守主義者と呼ばれることに異を唱へてわざわざ「なぜわたくしは保守主義者ではないのか」と題する論文を書き、自分がよつて立つのは自由主義であり、それが保守主義といかに異なるかを論じた。最近出版された楠茂樹・楠美佐子『ハイエク――「保守」との訣別』(中公選書)はハイエクの主張をわかりやすく解説するとともに、左翼以上に自由を侵しかねない保守主義の危ふさに警鐘を鳴らしてゐる。

楠(共著者をまとめてかう呼ぶことにする)が指摘する(202頁)やうに、ハイエクは傳統や慣習といつた、自生的に生成され安定化したルールや制度の存在意義を強調し、これが保守的な色彩を帶びる一因となつた。その主義主張が英國では保守黨、米國では共和黨と近かつたことも、保守のイメージに結びついた。

しかしハイエク自身は保守派のイメージを歡迎しなかつた。ハイエクの著書『自由の条件』は、保守黨出身の元英國首相マーガレット・サッチャーがバイブルとしたことで知られるが、皮肉なことに、ハイエクが非保守主義宣言をした上記論文は、この本に收められてゐる(春秋社版全集第I期第7卷所收)。
自由の条件3 ハイエク全集 1-7 新版

保守主義は無内容
ハイエクが言ふやうに、保守主義とは「激しい変化に反対する……態度」である(204頁)。だから社會主義が世界に激しい變化をもたらさうとした時代には、保守主義は社會主義を敵視し、社會主義を共通の敵とする自由主義と共鬪した。しかし「その連携は実は脆い基盤の上に成り立っている」(212頁)。なぜなら楠が補足する(205頁)やうに、保守主義者にとつて大切なのは「現状を保ち守ること=変えたくないこと」であり、「変わろうとする方向性には関心がない」からである。「極端に言えば、保守主義それ自体は無内容」(212頁)なのだ。

これには「保守主義には多くの優れた理論家がゐる」といふ反論があるかもしれない。しかしそれは幻想にすぎない。ハイエクが指摘する(219頁)やうに、「保守主義は社会秩序がいかに維持されるかに関する一般的概念をつくりだすことについて非常に無能であったため……自ら自由主義者をもって任じた著述家にほとんど例外なく援助を求めている」。代表的な保守思想家としてしばしば名前のあがるマコーリー(英國の歴史家・政治家)、トクヴィル(フランスの政治思想家)、アクトン(英國の歴史家・政治家)は「自分たちを自由主義者と考えたし、それは正当であった」。保守主義の父として崇められるバーク(英國の哲學者・政治家)でさへ「最後まで旧ホイッグ党〔自由黨の前身〕員としてとどまった人物であり、トーリー党〔保守黨の前身〕員とみなされることを考えただけでぞっとしたことであろう」。つまり保守主義の理論的に優れた部分とは、自由主義の借り物にすぎないのである。

保守主義には自前の理論がない。だから社會問題について判斷しなければならない場合、ハイエクが言ふ(206頁)ように、自由主義と社會主義といふ「両極端のあいだのどこかに真理があるはずであるとの信念に従ってきた」。その結果、保守主義者は「いつのときもいずれの方向にせよ、極端な動きを示したほうへ自分たちの位置を移してきた」。たとへば自由主義が+50、社會主義が-50の時代には0を選擇するが、自由主義が+50のままで、社會主義が-100になるとその中間の-25を選ぶ。すなはち、極端な社會主義に妥協して、より社會主義的な道を選擇する。これでは社會主義の齒止めにはならない。

國家主義への傾倒
それでも、たんに無原則で日和見主義であるだけならまだ害は少ない。だがハイエクは、保守主義はより大きな害惡を發生させる恐れがあると指摘する。自由主義者と違ひ、保守主義者は「われわれの文明を変化させている思想はいかなる国境をも顧慮しないという事実」(216頁)を受け入れることができない。このため國際主義に敵意を抱き、國家主義に傾倒する。これは社會主義へと轉落するきつかけになりうる。

また保守主義者は、自分の道徳的信念を他人に強ひる資格があると自身をみなしがちな點でも、社會主義者と共通する。だから社會主義からの轉向組は、學生運動家出身の日本の一部保守派智識人や元トロツキスト米國ネオコンのやうに、保守主義に流れやすい。楠はハイエクを補足して「ある価値〔社會主義〕を他人に強制しようとしてきた者がその価値を放棄するとき、新たなより所となる価値〔保守主義〕を他人に強制しようとする」と述べ、かう指摘する。「その点では社会主義保守主義は同根ということになる」(211頁)

さらに保守主義者は、ハイエクが言ふやうに「優秀な人物……は公共の問題についてほかの人よりも大きな影響力をもつべきである」(同)と考へるが、これも社會主義のエリート主義と變はらない。「優秀な人物」が受けついできた價値觀が社會主義のそれであれば、保守主義と社會主義は一致することになる。

ベルリンの壁崩潰とともに社會主義の信用は失墜したが、楠が指摘する(224頁)とほり、左翼勢力は「福祉国家論に棲家を変え、自由資本主義体制の中に潜伏するようになった」。一方、保守派は社會主義の衰頽によつて、いまや自由主義と共有できる價値觀を失ひ、「むしろケインズ主義的福祉国家と整合的であるかもしれない」。福祉國家は、ハイエクが自由にとつて社會主義國家と同じかそれ以上の脅威とみなした對象である。反左翼の假面をかぶり、福祉國家を肥大させてきた日本の保守派政權が「小さな政府」を實現してくれるといまだに期待してゐる人々は、ハイエクを讀んで頭を冷やさなければならない。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)