リバタリアニズムQ&A)相對主義か?

コメント欄でのやりとりなどを通じ、リバタリアニズムに對する疑問がいろいろわかつてきました。ときどき、それらをQ&Aの形でまとめてみます。その第1囘。

リバタリアニズムはすべての自由を認めるのだから、リバタリアニズムを否定する自由も認めることになる。これは矛盾ではないか。

リバタリアニズムは何でも認める相對主義ではありません。越えてはならない一線をきちんと定めてゐます。それは「他人の自由を不當に侵害しない」といふことです。罪もない人を自由氣ままに殺すのは、その人の生きる自由を不當に侵すことですから、リバタリアニズムの下でも當然許されません。

リバタリアニズムは財産權を道徳的に擁護するが、金儲けそのものに道徳的な價値はないのでは。

博打や投機といつた「不道徳」な手段で得た金錢であつても、盜みや詐欺でなく、當事者同士の自發的な合意に基づいて得たのであれば、正當な財産です。それを一方的に奪へば、その行爲こそ道徳に反します。リバタリアニズムは博打や投機に道徳的價値があると言つてゐるのではなく、正當な財産を奪ふことは道徳に反すると言つてゐるのです。

リバタリアニズムは市場に任せれば何でもできると思つてゐる。それはをかしい。

リバタリアニズムは、市場に任せれば永久機關を完成できるとか、水から黄金をつくることができるとか、日本人全員がビル・ゲイツ竝みの億萬長者になれるとか、そんなことを主張してゐるのではありません。政府に任せるよりはずつとましだと言つてゐるにすぎません。物事を判斷するには情報が必要ですが、政府は厖大な數の人々が知る樣々な情報を、それも時々刻々と移り變はる情報を、遲滯なく集め、分析することはできません。

リバタリアンは經濟の話ばかりしてゐる。もつと高尚なことをしやべれないのか。

リバタリアニズムが擁護するのは經濟的自由に限りませんし、リバタリアニズムの視點から文化や藝術について語ることも可能ですが、經濟の話をよくするのはたしかです。それにはいくつか背景があります。

まづリバタリアンにはそもそも經濟學者が多い。經濟學者は基本的に市場の機能を信頼してゐるので、政府の介入に否定的になるのは自然でせう。

次に現代において、政府の仕事の多くは「經濟政策」です。社會保障、公共事業、税制、國債管理、金融政策などなど。勢ひ、政府に對する批判は經濟分野に集中します。

最後に、經濟的自由は言論や學問の自由に比べ、一段低く見られてゐる。しかし、もしコンピューター産業が規制されてゐたら、私が今やつてゐるやうに、一般市民がコンピューターを保有し、それを使つて自分の言論を世に問ふことなど無理だつたでせう。さうした意味で、經濟的自由はあらゆる自由の基礎だとすら言へるのに、輕視されすぎてゐる。だからリバタリアンは經濟的自由の重要性をあへて強調するのです。

ただしこれらの事情はすべてアメリカのリバタリアンを參考に述べたのでして、日本では經濟學者ですらリバタリアンの數そのものが極めて少ないのが實情です。

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