戰爭の無力

人間はしばしば、自分の信じる價値觀を他人にも共有してもらひたいと考へる。その手段が言葉による説得であれば問題はない。しかし暴力や脅迫による強制は、間違つた手段である。とりわけ、大勢の人々を卷き込む戰爭といふ究極の暴力によつて特定の價値觀を押しつけようとするのは、愚かなことであり、手痛いしつぺ返しが待つてゐる。
アメリカ・力の限界
この苦い眞實を讀者に突きつけるのは、アンドリュー・ベイセヴィッチ『アメリカ・力の限界』(菅原秀譯、同友館、2009年)である。ベイセヴィッチは、エリート軍人を養成する米陸軍士官學校ウエストポイントを卒業後、ベトナム戰爭に從軍した經驗があり、1998年からボストン大學の國際關係論教授として教鞭をとる。2006年、イラク戰爭に從軍した二十七歳の息子が戰死してゐる。本書はエネルギーの自給自足を説くなど一部に同意しかねる部分もあるが、本質的な主張の正しさは、原書刊行(2008年)から五年たつ今でも變はらない。

2001年9月11日の同時多發テロ事件に見舞はれた當時のブッシュ政權は、「テロとの戰ひ」を宣言した。政權内部では、これは短期で終はる戰爭ではなく、一世紀以上も續く「世代を越える戦争」になるだらうといはれた。なぜなら、作戰の究極的な目的は「モロッコからパキスタン中央アジアからインドネシア、さらにフィリピン南部にいたる広大なイスラム世界を変革する」といふ壯大なものだつたからである。これは「世界を作り変える」といふこと以外の何物でもない、とベイセヴィッチは指摘する(77頁)。

このほとんど誇大妄想的な作戰の背景にある「分をわきまえない『優れたアメリカ』という考え方」(4頁)はどこから來るのか。米國人は保守層を中心に信仰心が厚いことで知られるが、長所は短所の裏返しでもある。信心は傲慢に轉じることもあるのだ。自身もカトリック信者であるベイセヴィッチは「謙遜の敵は信心ぶることである」と述べ、かう續ける。「アメリカの価値観と信念は全世界普遍のものであり、国全体が神から付与された目的に奉仕しているのだと思い込んでしまうのである。この信念に基づき、アメリカ人が持つイメージによって世界を作り変えようとしてしまうのだ」(12頁)

これだけでも十分に傍迷惑な話だが、價値觀の押しつけが政府を通じて行はれる場合、物事が純粹な宗教心や道徳心だけによつて動くことはまづない。つねに現世的で不純な動機がつきまとふ。ベイセヴィッチは齒に衣着せず、軍關係者のさうした狙ひを指摘する。「引退した将軍たちと提督たちは、国防機能が解体されては困るのである。国防機能を維持し、できれば拡大したいのが本音である」(226頁)。

かうして第二次世界大戰以來、「議会と行政府が結びついた大きな、しかも永久に拡大し続ける国防の機能」(111頁)が生まれることとなつた。ところが、それだけ肥大した政府の國防部門は「9・11を予見しても回避することができなかっただけでなく、事件の犯人を捕まえることもできなかった。イスラム過激派からの脅威に対して、現実的で秩序のある戦略を立てることもできなかった。こうした事柄に加えて、イラクアフガニスタンの戦争に関連してとんでもない間違いを繰り返している」(94頁)。

それどころか、政府は米國の敵に情報が漏れることを防ぐといふ口實で、守るべきはずの米國市民に對して祕密主義や情報操作を強めた。イラク戰爭では、女性兵士ジェシカ・リンチの「ほぼ出鱈目な感動的救出劇という架空の物語」を作り上げたし、アフガニスタン戰爭では、元プロフットボール選手パット・ティルマンが仲間の誤爆で死亡したにもかかはらず「急遽シルバー・スター勲章を与え、その偉業を讃えた」(114頁)。そしてもちろん、テロとの戰ひに關する政府の情報操作で最惡のものは、「存在しないイラク大量破壊兵器」(同)であつた。

ベイセヴィッチは、政府が企てたテロとの戰ひをかう總括する。「アメリカ合衆国が行使した軍事力は、大中東圏の人々を解放したわけでも、これらの地域をコントロールしたわけでもない。私たちは負け戦を戦ったのである。……アメリカ合衆国がその目的を達成するために強制力に依存するのは、不可能であることが決定的に証明されたのである」(213-215頁)。軍事的な擴大主義は、今や「アメリカの富と力を浪費させ、自由を危険にさらす」(85頁)ことになつた。米國は「冷戦と9・11によって生まれた壮大な幻想を、きっぱりとあきらめ」(224頁)、軍縮を進めるべきだとベイセヴィッチは提言する。

そもそも目的いかんにかかはらず、「問題の解決手段として、戦争を使っても、ほとんど思い通りにいかない」(215頁)ことを私たちはよく知つておくべきである。その意味で、戰爭は無力なのだ。もし米國から見てイスラム教に政治的な缺點があるとしても、それを米國やその同盟國が軍事力で變へようとするのは逆效果である。「ロシア国民がマルクス・レーニン主義の欠陥を発見したように、イスラム教徒自身がイスラム教の政治的な欠点を発見しなければならない」(235頁)。

テロとの戰ひを肯定し、それに協力した日本人にとつて、ベイセヴィッチの嚴しい指摘は他人事ではない。私自身、リバタリアニズムを學ぶ以前はテロとの戰ひを肯定してゐたこともあるが、現在は考へを改めた。道徳的に傲慢で、政治的に愚かな米國政府の行爲に手を貸し續けることは、一見無難な選擇のやうでも、やがて米國自身と同じく、「富と力を浪費させ、自由を危険にさらす」ことになるだらう。米國の傲慢で愚かな國家主義にではなく、謙虚で賢い自由主義に學ぶべきである。

(「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

特攻命令といふ殺人

大東亞戰爭で日本陸海軍が行つた體當たりによる自爆攻撃、すなはち特攻は、日本人の誇りであると稱へる者が少なくない。たしかに、國を守るためと信じ、若い命を捧げた隊員たちの態度は心に迫る。ところがその一方で、志願の建前とは裏腹に若者に特攻を命令した陸海軍上層部は、その非道を責められるどころか、英雄に祭り上げられてゐる。どれだけ感動的であらうと、特攻は合理的な作戰とはほど遠い自殺行爲であり、それを命じた軍上層部は殺人者である。
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三村文男『神なき神風――特攻五十年目の鎮魂』(テーミス、2003年)は、そのやうな特攻の非人間性を呵責なく、しかも明晰な論理にもとづき糺彈した書である。1995年に自費出版された後、一時絶版となつたが、讀者の要望を受け、商業出版物として復刊された。戰時中は醫學生で、海軍で軍醫の研修もした著者三村は、舊制中學校時代の友人を特攻で亡くす。それでも三村は、憂國の思ひもだしがたく志願して特攻出撃する若人が輩出したことは、帝國陸海軍の榮光として萬世に記憶さるべきことだと信じてゐた。

ところが戰後、友人の出撃が志願でなく強制されたものだつたことを知る。しかもそれはその友人だけではなかつた。智識人を含め、特攻を賛美する者は今でも多いが、「特攻が命令でなされたとなると、すべてが裏返しになってしまう。……帝国陸海軍の行為は、人間の尊厳を冒涜する犯罪だったということになる」(34頁)。志願した者もあつたが、歸還率ゼロパーセントでしかも效果の薄い自爆攻撃を「やめさせなかった罪は、人道にそむく」(241頁)と三村は軍上層部を批判する。

特攻は日本人の傳統的な價値觀の表れだと稱へる者があるが、三村はこの見解に反對する。なぜなら日本人の傳統的な價値觀に、「他人を自殺攻撃にかりたてることをよしとするものは存在しなかった」(226頁)からである。戰時中の皇國教育にしても、自己犠牲こそ教へたが、「部下に自殺攻撃を命令することを教えたことはない」。特攻を推し進めたのは、「徹底した人命軽視と部下蔑視」(229頁)を特徴とする昭和時代の軍上層部の價値觀であり、特攻命令は日本人の傳統的な價値觀からも決して許容できない「人倫の外道」(65頁)だつたと三村は指摘する。

三村は、軍上層部の「徹底した人命軽視と部下蔑視」を具體的に暴いてゆく。最も詳細に論じられるのは、神風特攻隊の結成と出撃に深くかかはつた海軍中將の大西瀧治郎である。大西は終戰直後に自決したことで、若者たちを特攻で死なせた責任をとつたといはれるが、それは誤つた見方だと三村はいふ。大西の遺書に「其〔特攻隊員〕の信念は遂に達成し得ざるに至れり。我死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす」とあるが、これは戰爭に負け、君たちの死を無駄にしてすまなかつたといふ意味にすぎない。「君たちを特攻命令で殺してすまなかったとは言っていない。外道を犯して悪かったとは、ひと言も言っていないのだ」(102頁)。

第一航空艦隊司令長官の大西は、出撃待機中の特攻隊員にかう訓示したといふ。「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、大臣でも、大将でも、軍令部総長でもない。もちろん、自分のような長官でもない。それは諸子のごとき純真にして気力に満ちた若い人々のみである」。三村はこの發言を次のやうに指彈する。

まともに考えれば、大臣、大将、軍令部総長らの無能無為無策が招来した危機が、「純真にして気力に満ちた若い人々」で救われるはずのないことは、誰でもわかることだ。……もし大西が嘘をついているのでなかったら、大臣、大将、軍令部総長に責任をとらせ、馘(くび)にしてから、若者にどうかお願いしますと言うべきだった。責任者をそのままにして、若い者をおだてるのは本末転倒である。(47頁)

大西が仕へる「大臣、大将」らは、大西よりもさらに惡質だつた。その一人が、知性派と呼ばれる海軍大將の井上成美である。井上はある文書で、特攻は「無理な戦」であると書きながら、反對はしなかつた。その理由は、三村が引用する生出寿によると、「特攻のような『無理な戦』をやってもやはりだめだというところまでいかなければ、終戦のいとぐちはつかめないと考えていた」(79頁)からである。だから倉橋友二郎少佐から「国破れて山河だけ残っても何にもなりません。もし国が破れるものなら、残すべきは人ではないでしょうか」と特攻の非を説かれても、井上はこれを默殺した。

「終戦のいとぐち」をつかむためといへば聞こえがよいが、これは人間を捨て駒にするのと同じである。三村は、井上を海軍大臣米内光政とともにかう批判する。「大西はパラノイア(偏執狂)的信念から強行したのに反し、井上、米内は終戦工作の方便として、特攻を重要視していたことは、より冷酷陰険かつ非人間的といえる」

軍上層部にはさらに上位者がゐる。昭和天皇である。三村は、言葉を選びながらも、天皇を免責はしない。特攻の報告に天皇が答へた「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」といふ言葉に、三村は「この時、『やめてくれ』と言われておれば、特攻作戦は再び決行されることはなかったであろう」と悔やむ。また「特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある。敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた」といふ天皇の述懐に、「にもかかわらず、敢てせざるを得ないものであったのだろうか」と疑問を投げかける(67頁)。

結論として、三村はかう宣言する。「私はすべての特攻命令者・協力者を殺人罪で告発する。戦後特攻を肯定し、弁護する人たちを事後従犯として告発する」(87頁)。現實の裁判ではない。特攻命令の罪は、時效のない「歴史という名の法廷」で裁かれるべきだからである。

多くの若者に自殺を強制しておきながら、自決した大西中將を除けば、「陸海軍の首脳部はじめ、責任をとるべき人たち」は「免れて恥とせず、戦後を生きのび」るといふ「厚顔」ぶりを發揮した(111頁)。かりに民間の防衞會社があれば、そもそも兵士に自爆攻撃を強要することなど許されないし、萬が一そのやうなことがあつた場合、上層部は間違ひなく重い責任を問はれる。特攻といふ非道は、防衞サービスの供給を排他的に獨占し、よほど大きな過失がない限り刑事上の責任を問はれない、政府の軍隊だから可能だつたのである。

現在、與黨自民黨は、憲法改正により自衞隊を國防軍に格上げしようとしてゐる。しかし、かつて政府が特攻といふ外道に走り、かつ責任をとらなかつた事實や、今でもそれを美化する言論がまかり通ることを考へると、とても政府の軍事權強化を許すことはできない。

(「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

戰爭は野蠻の衝突

戰爭は「文明の衝突」だといはれることがある。しかしそれは適切な表現ではない。なぜなら文明の本質は平和だからである。暴力を本質とする戰爭は、むしろ「野蠻の衝突」と呼ぶべきである。
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米國の政治學者サミュエル・ハンチントンは1996年の著書『文明の衝突』で、世界をいくつかの文明に區分し、冷戰終結後はイデオロギーの對立に代はリ、これら文明間の對立(とくに西歐文明とイスラム、中華文明との對立)が紛爭・戰爭のおもな要因になると述べた。この學説は2001年の9・11同時多發テロ以降、米國で政治家やタカ派言論人からイラク、アフガン戰爭を正當化する材料とされ、シナの脅威を強調するためにも引き合ひに出される。その流行は今も衰へず、日本では歴史學者の與那覇潤が『中国化する日本――日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋、2011年)を著し、日中戰爭(支那事變)は兩國間の文明の衝突だつたと論じてゐる。

しかし文明の本質は平和、戰爭の本質は暴力であり、互ひに水と油の關係にある。文明についてはのちほどまた述べるとして、まづは戰爭の本質が暴力、それもとりわけ野蠻で醜惡な暴力だといふ事實を確認しておかう。ナショナリズムが昂揚する時代には、戰爭がしばしば美化されるからである。

戰爭の暴力なら、映畫やドラマで知つてゐるといふ人がゐるかもしれないが、表現の規制もあり、わづかな流血ですら生々しく描かれることは少ない。逆説的だが、ドラマそのものを觀るよりも、原作の本を讀むはうが、鮮烈な映像が腦裏に燒きつくこともある。間違ひなくさうした本の一つといへるのが、スティーヴン・スピルバーグ製作總指揮のドラマシリーズ『ザ・パシフィック』の原作となつた囘想録、ユージン・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦』(伊藤真・曽田和子譯、講談社学術文庫、2008年。原書1981年)である。

著者スレッジ(1923-2001)は米國アラバマ州に生まれ、1942年に志願兵として海兵隊に入隊。第一海兵師團の歩兵として、パラオ諸島ペリリュー島の攻略戰、續いて沖繩戰に從軍した。本書はその兩戰場におけるすさまじい體驗を記したものである。

入隊後しばらく、米國本土で訓練に明け暮れるうちは「自分は敵の砲弾の餌食となるために訓練を重ねているという空恐ろしい現実は、どこまでも人ごとにすぎなかった」(37頁)といふスレッジは、まもなく南海の戰場で、「空恐ろしい現実」をいやといふほど思ひ知る。最も恐ろしいのは敵の砲彈だつた。「巨大な鉄鋼の塊が金切り声を響かせながら、標的を破壊せんと迫りくる……まさに暴力の極みであり、人間が人間に加える残虐行為の最たるものだった。……銃弾で殺されるのは、いわば無駄なくあっさりとしている。しかし、砲弾は身体をずたずたに切り裂くだけでなく、正気を失う寸前まで心も痛めつける」(116頁)

極度の緊張に、忍耐の限界を超えてしまふ者もゐる。ある夜、氣のふれた兵士が「助けてくれ、助けてくれ! ああ神よ、助けてくれ!」と大聲をあげて暴れだし、いつかうに靜まらないため、敵に氣づかれることを恐れてシャベルで毆られ、絶命する。この兵士の死について「その後、公式の説明を聞くことはついになかった」(161頁)。

發狂しないまでも、「地獄の深淵で、生き延びるための激戦を続けていると、文明という薄皮が朽ち果てて、誰もが野蛮人になる」(192頁)。かう記すスレッジが目撃したのは、重傷を負つた日本兵の口から金齒を奪ひとらうとする海兵隊員の姿だつた。

なんとしてもその金歯が欲しかったらしい。ケイバー・ナイフの切っ先を歯茎に当てて、ナイフの柄を平手で叩いた。日本兵が足をばたつかせて暴れたので、切っ先が歯に沿って滑り、口中深く突き刺さった。海兵隊員は罵声を浴びせ、左右の頬を耳元まで切り裂いた。日本兵の下顎を片足で押さえ、もう一度金歯をはずそうとする。日本兵の口から血が溢れ、喉にからんだうめき声をあげて、のたうち回る。(191頁)

結局、驅け寄つた別の海兵隊員が銃で日本兵を撃ち、とどめをさす。「最初の海兵隊員は何かつぶやいて、平然と戦利品外しの作業を続けた」といふ。他にも胸の惡くなるやうな描冩がいくつも出てくるが、これだけで十分だらう。

しかも戰爭の恐怖は、戰爭が終はつても終はらない。惡夢にうなされるからである。本書ではわづかに觸れてゐるだけだが、戰後、生物學の大學教授となつたスレッジが1994年に行つた講演をもとに著したエッセイ(ジョン・デンソン編著『戰爭の代償』〔未邦譯〕所收)によると、惡夢は二十五年間續いた。「冷や汗をかき、叫びながら目を覺ましたものだ。夢に見るのは、まるで本物の戰爭のやうだつた。惡夢が怖くて眠るのが恐ろしく、遲くまで寢ずに讀書をし、惡夢がやつて來ないやうに願つた夜もある」

スレッジは、戰友たちの勇敢さやお互ひに對する獻身的な姿勢を稱へながらも、戰爭そのものについては「野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である」(466頁)と總括し、囘想録を締めくくつてゐる。

文明の本質は、戰爭とはまつたく異なる。そこで大きな役割を果たすのは暴力ではなく、市場經濟である。人種、宗教、國籍を異にする個人であつても、「衝突」することなく、平和のうちに、他人が欲しがるものを與へる代はりに自分が欲しいものを手に入れ、互ひに滿足を高める。經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、「文明は平和的な協力(peaceful co-operation)の産物である」と述べた。戰爭は、平和的に築かれた文明を破壞する「恐るべき無駄」なのである。

人間はたしかに、宗教や言語といつた文化が異なるだけで憎み合ふ場合があるし、暴力を振るふ場合もある。しかしどんな暴力であつても、個人間や一族間のものであれば、戰爭ほど大規模な殺戮を伴ふことはない。近代の戰爭は政府によつて全國民が動員されるからである。政府は國民が戰爭を進んで支持するやうに、他國への憎しみを煽る。その目的に、「文明の衝突」などのもつともらしい學説が利用される。

しかし文明の本質とは、文化の違ひを超えた平和的な協力にあるのだから、異なる文明が「衝突」して戰爭を引き起こすといふのは、矛盾である。戰爭を引き起こすのは、文化の違ひではなく、違ひを暴力によつて否定しようとする野蠻な精神であり、それを利用する政府である。文化が異なれば戰爭は避けられないなどといふ煽動に騙されてはならない。

(「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

大きな政府の幻想

市場に積極的に介入する「大きな政府」は、經濟の繁榮を妨げる。大きな政府の極致である社會主義は、ソビエト聯邦や舊東歐諸國の崩潰後、さすがにほとんど支持されなくなつたが、「ほどほど」の大きな政府である福祉國家(現在の日本、米國、多くの歐州諸國)については、政治信條の左右を問はず、いまだに信奉者が多い。しかし、たとへほどほどであつても、市場への介入が經濟の足を引つ張ることに變はりはない。それどころか、福祉國家は本質的に、政府の統制がしだいに強化され、結局は社會主義に行き着く危險をはらんでゐる。
ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス: 生涯とその思想
社會主義、福祉國家といふ二つの大きな政府を早くから徹底的に批判したのが、オーストリア出身の經濟學者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881-1973)である。最近邦譯が出版された、弟子のイスラエル・カーズナーによる『ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス――生涯とその思想』(尾近裕幸譯、春秋社)で、その主張が手際よく紹介されてゐる。

社會主義
まづ社會主義である。ミーゼスは1920年、社會主義の計劃經濟を批判する論文「社会主義共同体における経済計算」を發表した。1920年といへば、ロシア革命で史上初の社會主義政權が樹立されてまだ三年しかたつてゐない。この早い時期にミーゼスは、社會主義者が主張する合理的な經濟計劃は不可能であると斷じた。

その根據はかうだ。合理的な經濟計劃を行ふには、事業の健全性を判斷する損得の計算が必要である。そのためには、さまざまな經營資源(土地、原材料、機械、勞働力など)に市場價格がなければならない。ところが社會主義では、定義上、これらの資源は國有化されてゐるから、市場價格が存在しない。經營資源に市場價格がなければ、どれほど勤勉で獻身的な中央計劃者でも、自分の判斷が合理的かどうかを知ることができない。

社會主義經濟は努力や工夫をすればなんとかなるものではなく、まさにその原理上、合理的に行ふことは不可能であるといふ根源的な批判をミーゼスは突きつけたのだ。しかもこれは現在主流の經濟學とは異なり、經濟統計を實證的に「分析」した結果ではなく、純粹な論理から導かれたものである。カーズナーは、ミーゼスの根本的な社會主義批判を「幻想を粉砕した」(186頁)と表現する。

福祉國家(介入主義)
次に福祉國家である。福祉國家にみられる「ほどほど」の大きな政府の政策を、ミーゼスは介入主義と呼ぶ。とくに1930年代の大恐慌後、西側の資本主義世界では、自由放任主義の「危險」や「行き過ぎ」に齒止めをかけると稱して、政府の市場介入が聲高に唱へられるやうになつた(實際には大恐慌の原因は自由放任經濟ではなく、政府の市場介入だつた)。しかしミーゼスはそれに異を唱へた。

資本主義と社會主義を組み合はせた混合經濟が實行可能な「第三の道」だといふ考へは神話にすぎない、とミーゼスは信じてゐた。介入主義政策は「消費者の選好を無視し、そのために消費者の目的を実現できないために失敗する羽目になるか、あるいは、政策立案者自身がまったく意図しない困った結果をもたらす」(189頁)。たとへば、最低賃金法や、勞働市場に介入する勞働組合びいきの法律は、失業を生み出す。擴張的な金融政策は不況を引き起こし、貧困層はもちろん、貯蓄や他の資産を保有する人々を苦しめる。ケインズ的完全雇傭政策は、結局、人々を不幸にする物價騰貴を引き起こす。

だが介入主義がもたらす最惡の事態は、他にある。政府による經濟の統制が不可避的にどんどん強化されることだ。たとへば、ある商品市場の價格が「高すぎる」と感じた政府は、價格の上限を設定する。これは經濟學の初歩で學ぶとほり、その商品の不足を引き起こす。するとこの不足に對處するため、政府は配給を始めたり、商品の原材料市場にまで價格統制を擴大したりすることになる。同種の統制がさらに廣がれば、介入主義體制は社會主義に變貌する。「福祉国家というのは、市場経済を着実に社会主義へと転換するものに過ぎない」(192頁)とミーゼスは臆せず述べた。

ドイツ型社會主義(ファシズム
ただしこの場合の社會主義は、ミーゼスの主著『ヒューマン・アクション』(村田稔雄譯、春秋社)での分類にしたがへば、「ロシア型社會主義」ではなく、「ドイツ型社會主義」である。ロシア型社會主義が「全く官僚主義的で……すべての工場・商店および農場は、形式上国有化されて」ゐるのに對し、ドイツ型社會主義は「生産手段の私有を名目上表面的に保持して」ゐるものの、「もはや企業家は存在せず、企業経営責任者(ナチの用語でBetriebsführer)のみが存在している。これらの企業経営責任者は……すべて政府の生産管理最高官庁が出す命令に、無条件で服従しなければならない」(同書、760頁)。

日本人の多くは、ソ聯や舊東歐、北朝鮮などの失敗が明らかになつた現在、先進國が社會主義に逆戻りすることなどありえないと信じてゐる。しかしそれはロシア型社會主義の話であつて、福祉國家からドイツ型社會主義への距離はそれほど遠くない。

最近米國では企業救濟や國民皆保險を推し進めるオバマ大統領が保守派から「社會主義者」と非難され、これにリバタリアンの經濟學者トーマス・ソーウェルが「社會主義者ではなくファシスト」と異論を挾んでゐるが、これは定義の問題にすぎない。ソーウェルがもとづく標準的な定義によれば、ファシズムとは生産手段(經營資源)の私有を名目上のみ認める體制で、ミーゼスのいふドイツ型社會主義と同じだ(ナチスの正式名稱は「國家社會主義ドイツ勞働者黨」)。米國同樣、介入主義にのめり込む日本や歐州も、社會主義(ファシズム)への危險な道を突き進んでゐると言はなければならない。

サミュエルソンの豫測
さて、ここで注意すべきは、社會主義に合理的な計劃は不可能だと斷言したミーゼスも、「社会主義経済が、たとえ数十年間であっても存在できない、といったわけではない」(185頁)ことである。意思決定が合理的でなくても、「存在」し續ける程度のことはできる。だからソ聯が長期にわたつて存在しても「ミーゼスはまったく動揺しなかった」(185頁)。それでも結局、合理的でない判斷を重ねたソ聯經濟はその非效率から成長が阻害され、國民を貧困で苦しめ、最後は崩潰して七十年の歴史に幕を閉ぢた。

一方、實證主義的な主流派經濟學を代表する米國のポール・サミュエルソンは、ソ聯經濟にきはめて樂觀的だつた。岩波書店から邦譯も出てゐた有名な經濟學教科書の1961年版で、ソ聯のGNP(國民總生産)は1984年から1997年の間に米國を追ひ拔くだらうと豫測した。サミュエルソンは版を改めるたびに繰り返し同樣の分析を載せたが、米ソ逆轉の時期だけがいつも先に延ばされ、1980年版ではたうとう2002年から2012年の間になつてしまつた。

アレックス・タバロックよると、「その後の版でサミュエルソンは豫測を外したことを認めず、ソ聯經濟は『天候不順』("bad weather")だと述べる以外、ほとんど言及しなかつた」。數少ないコメントの一つが、ソ聯經濟が崩潰しかけてゐた1989年の版で平然とかう記したことだ。「多くの懐疑論者が信じてゐたのとは逆に、ソビエト經濟をみれば、社會主義の計劃經濟が機能し、成長もできる(can function and even thrive)ことは明らかである」

このあまり名譽といへないエピソードで思ひ出すのは、歐州經濟危機が今ほど深刻でなかつた2010年春、日本のある經濟評論家が出版した本で、わづか三十年のデータをもとに、政府の財政擴大は經濟成長を妨げず、むしろ促すと主張したことだ。財政赤字を二十年以上續けても立派に經濟成長を遂げてゐる例として舉げた國のうち、堂々の成長率トップはギリシャ。その他、上位にはポルトガル、スペイン、キプロスなどが名を連ねた。ある意味、なんとも興味深い實證分析の成果である。

GDPのバイアス
政府が介入主義を續けても、すぐにGDP(國内總生産)の減少につながるとは限らない。もともと介入主義のバイアスがかかつたGDPは定義上、政府支出を増加要因としてカウントする仕組みになつてゐるからだ。上述のやうに、社會主義のソ聯ですら、一時は米國を追ひかけて經濟成長したのである。だがその陰では、市民が劣惡な生活を強ひられ、最後はミーゼスの理論どほり、經濟全體が潰滅した。日米歐の介入主義經濟は、資本主義の部分がまだ殘つてゐるものの、放置すれば、ミーゼスの警告どほり社會主義(ファシズム)が到來する可能性は否定できない。

大きな政府は社會を豐かにせず、むしろ貧しくする。それは社會主義だらうと福祉國家だらうと、違ひはないのだ。私たちは、大きな政府が繁榮をもたらすといふ幻想から、完全に目覺めなければならない。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

資本主義のシナ、社會主義のアメリカ

シナ(中國)は市場經濟が發展してきたとはいへ社會主義の國であり、米國市場原理主義が大手を振つて歩く資本主義の國――。これが兩國に對する世間一般のイメージだらう。しかし、もはやさうしたイメージは現實とは異なる。シナこそ堂々たる資本主義國であり、米國は社會主義國になり果てようとしてゐる。
冒険投資家ジム・ロジャーズのストリート・スマート  市場の英知で時代を読み解く
この事實を多くの事例にもとづき指摘するのは、『冒険投資家ジム・ロジャーズのストリート・スマート――市場の英知で時代を読み解く』(神田由布子譯、ソフトバンク・クリエイティブ)である。投資家として著名なロジャーズは2007年、家族とともにニューヨークからシンガポールに移住した。「世界の力の中心は今アメリカからアジアに移行している」(11頁)と判斷したからだ。ロジャーズは本書で、故國がいかに社會主義的な國に變貌してしまつたか、一方でアジアの資本主義がいかに躍動してゐるかを、怒りと希望を交へながら描いてゆく。

まづ米國だ。經濟的自由の柱となるのは人、物、金の國際的移動の自由だが、とりわけ人の移動、つまり移民は、米國をつくりあげた特別な意味がある。だが今や、その移民に對する反撥がこれまでになく強まつてゐる。ロジャーズが育つたアラバマ州は2011年6月、「HB56というアメリカで最も厳しいと言われる移民排斥法を成立させた」(196頁)。同年9月に法律が發效すると、恐れをなした何千人もの移民が仕事や學校や家を捨てて州外に出た。「畑に放置された作物は腐り、55億ドルを生み出していたアラバマの農産業の基盤が崩れ去ってしまった。前年4月の壊滅的な竜巻で壊れた建物の再建も、建設労働者の25%が州を去ったために立ちいかなくなっている」

金の移動への規制はさらに影響が大きい。今年初めから實施された外國口坐税法順守法(FATCA)により、米國人顧客の口坐を取り締まる米國税廳と契約をかはさない海外金融機關は、30%の追徴税を課されることになつた。米國人顧客を確認し、取引内容を報告し、特定の顧客の預金に税を課すのにかかる餘計な費用はまつたく支拂はれない。「そのうえ、とても支払えないほど高額な追徴税を強いられるとあっては、もうアメリカ市民を閉め出すしか手はなくなる」(209頁)。歐州の銀行は2011年、米國人の證劵取引口坐をすべて解約し始めた。

また米政府は2008年、米國市民權を抛棄した場合、資産額に応じて課す國籍離脱税を導入した。米國は、居住してゐるかどうかではなく市民權があるかどうかで課税する世界でも珍しい國の一つであるため、ロジャーズのやうな海外居住者は税金を二重に拂はされる。これを嫌つて市民權を抛棄する富裕層が増えたことに對抗し、導入されたのが國籍離脱税だ。英エコノミスト誌はこの税を「アメリカのベルリンの壁」と評したといふ。ロジャーズは吐き捨てるやうに書く。「アメリカ合衆国は旧東独や北朝鮮キューバ、イラン、旧ソ連、そして1930年代のドイツ〔引用者注=ナチスドイツ〕と同類になった。市民を国内にとどめておくように考案された法律……を持つ国家群の一員になったのである」(211頁)。物の移動、つまり貿易についても「保護貿易主義の気運が高まっているように見受けられる」(213頁)。

經濟的自由の束縛以上に深刻なのは、テロとの戰ひを名目に成立した愛國法により、プライバシーや人身の自由が脅かされてゐることだ。米國は「令状もなく盗聴器をつけ、不当な捜査や逮捕がまかり通り、無期限で拘留し、拷問が慣例となっている、テロリストたちの祖国と同じような国」(205頁)と化した。つひには自國民を「裁判にかけずに政府が殺す」(206頁)事態まで起こる。2011年9月、イエメンで米國市民二人がCIA(中央情報局)無人機に攻撃され死亡したのである。「その2人に罪はあったのだろうか? たぶんあったとは思うが、本当のところは誰にもわからない。逮捕するわけでもなく、弁護士や裁判官や陪審員が出てくるわけでもなく、裁判もなかったのだ」(205頁)

シェールガス革命といふ希望の燈はあるものの、税制、教育制度、醫療や訴訟の制度を改革し、海外駐留部隊をすべて本國に戻さない限り、米國の衰頽に齒止めをかけるのは難しい。そして政府が「数々の利害とロビイストでがんじがらめ」(276頁)である以上、これらの改革は起こらないだらうとロジャーズは突き放す。

一方、シナはどうか。政治體制は共産黨の一黨制である。しかし資本主義が發展するかどうかは、政治體制とは必ずしも關係がない。資本主義に必要なのは、經濟の自由である。經濟の自由は、一黨制よりも議會制民主主義のはうが大きいとは限らない。現に、上述のとほり、議會制民主主義の米國では經濟の自由が甚だしく侵害されてゐる。おまけに、倒産しかけた企業や銀行を政府が救濟し、經濟の新陳代謝を阻んでゐる。

これに對し、シナに對するロジャーズの評價は高い。「中国の政治制度がベストだと言うつもりはない」(246頁)と斷つたうへで、かう書く。「今日の中国がここまで発展しているのは、起業活動を自由化したからである。人びとは何でもやりたいことをできるようになった」(251頁)

ロジャーズは、シナを米國と比較してかう言ひ切る。「一部の人たちが中国的社会主義と見なすものは、すべてが国有化されていた30年間の名残りにすぎない。今私たちが目にしているのは資本主義の中国である。……カリフォルニアの方が中国より共産主義的だし、マサチューセッツの方が中国より社会主義的である」。これから「景気後退を余儀なくされる」(253頁)だらうが、長い目では「世界を率いる文明に返り咲きそうなのは中国だけ」(280頁)である。

最後に、日本についてである。ロジャーズはアジアの一員として期待するとともに、懐疑も抱いてゐるやうだ。少子高齢化にもかかはらず移民の受け入れに消極的なことや、破綻企業を政府が延命させてきたことに失望してゐる。報道によると、ロジャーズは最近、保有してゐた日本株をほぼすべて賣却したといふ。移民規制や企業救濟だけでなく、増税や野放圖な金融緩和で自由な經濟が阻害されつづければ、もはや資本主義國ではないとして完全に見放されてしまふかもしれない。

(註)「シナ」は英語のChinaなどと語源を同じくする世界的共通語であり、差別的意味はない。一方、「中國」は中華思想にもとづく言葉であり、日本の中國地方とも混同しやすい。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

大きな政府は國を滅ぼす

小さな政府を支持する市場原理主義は國を滅ぼすと、保守革新の言論人はともに主張する。しかしそれは誤りである。國を繁榮させるのは小さな政府であり、大きな政府は國を衰亡させる。その眞理を雄辯に物語るのは、一千年の長きにわたり存續したビザンティン帝國の歴史である。
生き残った帝国ビザンティン (講談社学術文庫 1866)
1990年に刊行され、現在も文庫本として版を重ねる井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社学術文庫、2008年)では、ビザンティン帝國(東ローマ帝國)盛衰の理由について興味深い指摘が數多くなされてゐる。まづ官僚制である。ビザンティンの官僚制といへば、惡い印象が一人歩きしてきた。厖大な數の役人がをり、手續きやしきたりにうるさく、非能率で、賄賂やコネがまかりとほり、國の富を喰ひつぶす魔物のやうな存在、といはれてきた。ビザンティン帝國のガンとさへいはれ、帝國衰頽の原因のひとつに數えられたりもしてゐる。

しかし「このイメージは、少なくとも八世紀から十世紀の発展期に関するかぎりあてはまらない。まったく逆である」(150頁)と井上は指摘する。九―十世紀の中央各官廳の定員を調べてみると、「その数は想像されるよりはるかに少なく、たった六百人余りである(下級の書吏は除く)」。井上はかう強調する。「今日『小さな政府』とか『安上がりの政府』などと呼ばれているものを、発展期八―十世紀のビザンティン帝国はもっていたのである」(151頁)

次に教育制度である。子供の教育は政府の仕事ではなく、民間で行はれた。讀み書き算盤の初等教育は、教會や修道院の附屬學校か、家庭でおもに母親によつてなされた。高等教育は、修辭家やソフィストと呼ばれる智識人が開く私塾で行はれた。

民間の教師がやつてゐた私塾を國立に移管したり、新たに宮殿に大學を作つたりして、國家が高等教育に直接携はることもあつたが、長續きしなかつた。「教育はどちらかといえば国家の管轄外で、もちろん文部省のような官庁はなかった。民間に任せておいても十分に人材が補給されるだけの教育・文化水準の高さを、ビザンティン帝国はもっていたのである」(154頁)

三番目が通貨と財政である。ビザンティン帝國が發行するノミスマ金貨は、國際通貨として各國商人によつて使はれ、首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が國際商業都市として榮える支へとなつた。「中世のドル」とも呼ばれるといふ。

ただし現代のドルは米國政府が發行してゐる點を除けばただの紙切れだが、ノミスマ金貨の場合、「その信用は貨幣自体がもつ金(きん)にあった」(198頁)。前身であるソリドゥス金貨が四世紀のコンスタンティヌス皇帝によつて發行されて以來、十一世紀ごろまでほぼ純金といふ高品位を保つた。あとで述べるやうに、これは政府が無駄な支出を抑へ、健全な財政を維持したことの反映である。

民間でできることは民間に任せ、小さな政府を保ち、健全な通貨と財政を維持することで、ビザンティン帝國は長期にわたる存續の基礎を築いた。しかしそのビザンティンも、賢明な態度をいつまでも續けることはできなかつた。「小さな政府」は徐々に「大きな政府」へと變貌してゆく。

きつかけは軍事的な擴大路線である。帝國の對外擴大とともに、兵役を果たす農民は遠い地方へ遠征に出かけることが多くなり、農作業が十分にできなくなつた。政府からもらふ給料は少なく、馬や武具は自前とされてゐたので、農業經營がふるはなければ召集に応じられない。やがて農民は「土地を捨て、村を出て流浪せざるをえなくなった」(190頁)。「土地を所有しているかぎり、国家の税や軍役を逃れられないから」である。

安上がりの農民兵を確保できない政府は、傭兵を雇はざるをえず、その費用が高くつくやうになつた。資金を調達しようにも、納税者である農民が逃亡といふかたちで抵抗するから、増税は容易でない。そこでとつた手段は借り入れである。定められた金額を政府に拂ひ込むと、爵位や名譽官職が與へられ、それに応じた年金を受け取ることができるやうにした。今でいへば國債制度に等しい。官位販賣は國債發行であり、年金は利息である。

十一世紀にはこの官位販賣がどんどん擴大する。外國に領地を荒らされた土地所有者やイタリア都市との競爭に押され始めた商人などが、より安定した收入を求めて官位を贖入した。「ビザンティン経済を支えていた人々が、国家に寄生する金利生活者に変わっていった」(200頁)

當然、年金の支拂ひがかさむ。少しでもそれを輕減しようとして、政府がとつた方法がノミスマ金貨の改惡であつた。「簡単にいえば、一枚分の金で二枚の金貨を作ったのである。この金貨で支払えば、年金は半分で済むことになる」(201頁)。もちろんこの措置は、官位を買つて金利生活に入つた者のみならず、給料を實質切り下げられた官僚や兵士からも強い反撥を招く。彼らは官位の昇進を要求した。「より高い官位にはより多くの年金がついていたから、高い官位に進むことで、年金の実質額を確保しようというのである」。皇帝たちはその要求を認め、十一世紀後半には、それまでにはなかつた高い官位がつぎつぎと新設されることになる。

しかしこれはツケの先送りにすぎなかつた。政府の赤字は雪だるまのやうに膨らみ、つひにニケフォロス三世時代(在位1078-81)には、官位保有者に支拂ふ年金が國家の收入の何倍かになつた。「皇帝は支払いを中止せざるを得なくなった。ビザンティン帝国は国家破産を宣言したのである」(202頁)。その後、古い官位を事實上無價値にするといふ荒療治によつて財政は一時持ち直すが、無理な遠征はやまず、國力を使ひ果たして1453年の滅亡に至る。

井上によれば、「ビザンティン人のあいだでは、皇帝の仕事は戦争をすることではなく、平和を維持することだと考えられていた」(172頁)といふ。ローマ時代にはゐなかつた女帝がビザンティン時代になつて現れたのは、そのためともみられてゐる。そのビザンティンが戰爭による對外擴大に走り、政府が肥大したとき、經濟の活力は失はれ、衰亡が始まつた。大きな政府は國を滅ぼすのである。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

兵士は政治の駒

昔から、兵士になることを志願する若者の多くは、純粹な使命感にあふれてゐる。しかし同時に、その使命感と尊い命は、しばしば政府によつて誤つた目的に利用される。その大義名分として唱へられるのが「國益」や「國際貢獻」である。
災害派遣と「軍隊」の狭間で―戦う自衛隊の人づくり
ジャーナリストの布施祐仁は『災害派遣と「軍隊」の狭間で――戦う自衛隊の人づくり』(かもがわ出版、2012年)で、自衞官らへの取材をもとに、2003年から自衞隊をイラクに派遣して行つた「國際平和活動」の實態を描いてゐる。それは戰後の復興支援としてはほとんど無意味な行爲だつた。

陸上自衞隊は約二年半のイラク派遣で、學校、道路、診療所、養護施設、淨水場、低所得者用住居など計百三十三カ所の公共施設を補修・整備した、とその「成果」をアピールする。だが「そのほとんどは自衛隊自身によるものではなく、地元の業者に発注して実施したものであった」(32-33頁)。自衞隊は時折現場を訪れて、役務業者に對する「指導・監督」を行ふだけだつたといふ。

當時志願して現地に赴いた陸上自衞官は、イラクでの仕事にやりがいを感じる一方で「自衛隊がやるべき仕事ではなかったのでは」と疑問に思ふこともあつたといふ。布施の取材にかう話す。「浄水場とかもODA〔政府海外援助。外務省が所管〕で補修しましたし、外務省の企画で給水車を現地に寄付しましたが、あれも自衛隊は〔マンガの〕キャプテン翼のステッカーを張っただけ」

布施が解説するやうに、派遣を決定する際、日本政府は「(危険性の高いイラクで)効果的な人道復興支援を行い得るのは自己完結性を持った自衛隊をおいて他にない」(首相談話)と説明した。ところが自衞隊だけでは限定的な復興支援しかできず逆に住民の不滿を高めてしまふことや、住民の最大のニーズが雇傭であることから、派遣二カ月後には自ら「自己完結性」を抛棄し、地元業者への發注に方針轉換したのである。

布施は續けてかう指摘する。「自衛隊は、これにより一日最大で1100人、のべ約49万人の雇用を創出できたとしている。しかし、約721億円の派遣費用の大半は、人件費をはじめとして約600人の部隊を駐留させるために費やされた。実際に宿営地外での活動にあたった隊員はごく一部であったことを考えても、そのお金を復興支援事業に回したほうが、より多くの雇用を創出できたはずである」(33-34頁)

自衞隊派遣は、費用に對して效果が小さかつただけではない。「負」の效果をもたらす危險もはらんでゐた。陸上自衞隊のある内部文書には、かう記されてゐた。「多国籍軍については占領軍との住民意識も根強いため、治安情勢は一朝一夕には改善されない状態にある」「(自衛隊が)人道復興支援活動を実施するにはリスクがつきまとう」(36-37頁)。復興支援の使命感を抱いた自衞官たちが、イラク戰爭を主導した米軍と同じく、「占領軍」として現地で憎しみを買ひ、武裝勢力の攻撃を招く恐れもあつたのである。實際、參戰しなかつたフランスやドイツは人道復興支援目的でも軍隊を派遣しなかつた。

それでも日本が派遣に踏み切つたのは、一つには、「唯一の同盟国」米國への配慮からであつた。前述の陸上自衞官はかう語る。「結局あれは日米関係のための派遣だったのかな、と。自衛隊は政治の駒として派遣されたと感じました」(32頁)

もう一つの目的は、日本の「國益」追求である。2007年、海外派遣の計劃・訓練・指揮を一元的に實施する「メジャーコマンド」として陸上自衞隊中央即應集團が新たに編成された。同部隊の第二代司令官、柴田幹雄陸將(當時)は2009年年頭の訓示で、その存在意義をかう語つたといふ。「中央即応集団は、海外における国家目的や国益、戦略的な利益を追求するためのツールもしくは手段として使用される」(150頁)。布施は「ついに日本でも、海外で国益や権益を追求するためのツール〔道具〕として『軍隊』を活用することが、現役の自衛隊高級幹部によって公然と唱えられるようになった」と驚く。

イラク戰爭でフセイン政權が崩潰すると、世界第二位の埋藏量を誇るといはれる油田の開發が外國石油會社に開放された。日本企業も石油資源開發や三菱商事が海外企業と組み、開發への參入に成功した。かうした「成功体験」は自衞隊の海外派遣をいつさう後押しするに違ひない、と布施は書く。事實、日本経団連は2007年に發表したビジョン「希望の国、日本」の中で、「(憲法九条を改正して)国益確保や国際平和の安定のために集団的自衛権を行使できることを明らかにする」やう求めた。

布施は「フィールドを全世界に拡大しつつある自衛隊は、同じくグローバルに活動する財界や大企業との関係を徐々に深めつつある」(152頁)と指摘する。自分が率ゐる部隊を、海外での國益追求の道具とあけすけに呼んだ柴田司令官は2009年、三菱商事の顧問に天下りしたといふ。政治や軍事と癒着した企業活動は、資本主義の健全な姿とは言ひがたい。

布施はあとがきでかう書く。「若い自衛隊員を取材していると、気持ちが良いくらい真面目で誠実で、尊敬の念すら覚えることが多い。そんな彼らの純粋な使命感とかけがえのない若い命が、『国益』という大義名分の下で(しかも、それはアメリカの『国益』である可能性が高い)、政府に間違った方向で利用されるのだけは何としても食い止めたい」。同感だ。國益や國際貢獻の美名の下に、兵士を使ひ捨ての「政治の駒」にしてはならない。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 (自由叢書)