『原発のウソ』

小出裕章原発のウソ』(扶桑社新書、2011年)

原発のウソ (扶桑社新書)

福島原發事故の發生以來、「原發事故が起こつたのは市場原理主義のせゐ」といふ非難をウェブで時々目にする。「それは間違ひだ」と市場原理主義者である私が言つても信じてもらへないだらうから、次の文章を讀んでみてほしい。

日本は資本主義社会です。企業には「お金を儲ける自由」が認められていますが、そのかわり何らかの事故を起こして誰かに損害を与えた場合、「自分たちで補償する」のが原則です。ところが原子力発電は「電力会社は事故時の賠償金を全額支払わなくてもよい」という、本当におかしなシステムのもとに成り立っているのです。

これは『原発のウソ』106−107頁からの引用だ。著者小出氏は四十年にわたつて原發の危險性を訴へてきたといふ原子力研究者であり、經濟學の專門家ではない。しかし本書を讀むと、「原發事故は市場原理主義のせゐ」といふ主張がいかに的外れかがよくわかる。

企業が事故を含むさまざまなリスクを自分で背負つて競爭するのが資本主義社會だ。ところが小出氏が言ふとほり、電力會社は原發事故を起こしても賠償金をすべて自分で拂ふ必要はなく、國民の税金で肩代はりしてもらへる。こんなしくみは資本主義でも市場原理主義でもない。

電力會社は事故のリスクからだけでなく、競爭からも守られてゐる。小出氏は指摘する。

資本主義社会では、商品の価格は市場原理で決まります。価格が不当に高い製品は生き残ることができません。ところが日本では一つの会社からしか電気を買うことができないので、いくら料金が高くても消費者はそれを買わざるをえないのです。(109頁)

競爭が自由な資本主義の下では、ある分野で壓倒的な強さを誇る企業でも、高い價格をいつまでも續けることはできない。別の企業が低價格を武器に新規參入し、シェアを奪つてしまふからだ。だが新規參入が制限されてゐる電力業界では、その心配はない。企業經營などしたこともない官僚OBでも、天下つて立派に役員としてやつていける。

世界一高い電力を買はされ、立ち行かなくなつた産業さへある。例へばアルミ精錬産業。「これは非常に電力を必要とする産業だったので、電力料金の重荷に耐えきれず、ことごとく潰れてしまいました。世界のアルミ需要はその後急激に伸びており、日本は巨大ビジネスチャンスを喪失した格好になります」(111頁)。こんなしくみは資本主義でも市場原理主義でもない。

資本主義社會では、消費者が拂つてもよいと思ふ額によつて商品の價格が決まり、企業はそれに合はせて採算がとれるやうコスト削減に努力する。コストが削れなければ赤字になつてしまふ。ところが電力會社は違ふ。必要經費に利潤(儲け)を足したものが「総括原価」と呼ばれ、この額がすべて電力會社の懐に入るやうに電力料金を決めることになつてゐる。「つまり、電力会社は何をやったとしても絶対に損はしません」(109頁)

しかもその利潤は、電力會社が持つてゐる資産に一定のパーセントを掛けて決められる。資産が大きければ大きいほど利潤が大きくなるといふ、すごいしくみだ。この資産を増やす手段として、原發が「大活躍」すると小出氏は指摘する。

原発は建設費が膨大で、1基造ると5000億円、6000億円。核燃料も備蓄できるし、研究開発の「特定投資」も巨額です。(略)つまり原子力発電をやればやっただけ、電力会社は収入を増やすことができる。とにかく巨費を投じれば投じるほど電力会社が儲かるシステムです。(110頁)

普通の企業にたとへれば、作つた製品が賣れようが賣れまいが、工場やビルを建てれば建てるほど儲かるといふわけだ。こんなしくみは、斷じて、資本主義でも市場原理主義でもない。

戰後の電力産業がまともな資本主義の下で育つてゐれば、巨大なリスクとコストを抱へる原發が亂立することはなく、今囘の事故も避けられたかもしれない。元兇は市場原理主義でも資本主義でもない。政府とその保護下にある特權的大企業だ。この「おかしなシステム」に手を着けないままで、眞の復興はありえない。

<こちらもどうぞ>