「デフレは惡い」のウソ(5) 大恐慌その3=金本位制惡玉論を斬る

最も憂慮すべきは、金本位制への的外れな非難だ。普通の讀者は金本位制のことなどほとんど知らないから、高橋洋一氏や勝間和代氏のやうな有名人が惡玉論を書き立てると、素直に信じてしまふ恐れが強い。濡れ衣を着せられた「野蠻の遺物」のために辯じて、締めくくりとしよう。

高橋氏の議論を檢討する前に、金本位制について説明しておく必要がある。金本位制とは、一言で言へば、政府(中央銀行)によるおカネの發行量を縛る仕組みだ。政府は保有する金の量の範圍内でしかおカネを刷ることができない。おカネを持つた市民が金と交換してくれと求めれば交換しなければならないからだ。だから高橋氏のやうに「デフレは惡い」と信じる人々が「金本位制はデフレをもたらす」と非難するのは、事實認識としては正しい。他の條件が同じなら、おカネの量が増えなければ物價は上がらないからだ。

それではなぜ、大恐慌が起こつた當時、各國でそのやうな融通の利かない制度がとられてゐたのだらうか。それはまさしく、政府による貨幣發行に齒止めをかけるためだ。歴史を振り返ると、政府は常におカネの量を水増しし、それによつて不當な利益を得ようとしてきた。金貨や銀貨が主流だつた時代には、コインの縁を削り取つたり、他の金屬を混ぜたりして、本來含まれるべきよりも少ない金や銀で、より多くのコインを造り、それを使つて王や貴族はほしい物を手に入れた。だがおカネが市民の手に渡る頃には、物價高でその價値は失はれてしまふ。

印刷術が發明され、紙幣(お札)が一般的になると、おカネの水増しは一氣に樂になつた。コインを削つたり混ぜ物をしたりする手間がかからず、機械で刷りさへすればよい。コインをいぢれば色や重さでばれてしまふが、お札は何枚刷らうと全く同じ「本物」だ。だがマネー膨脹の度合ひが高まるにつれ、社會にもたらす打撃も深刻になる。ミシシッピ・バブルの崩潰がフランス革命の遠因となつたやうに、國を滅ぼした例さへある。

かうした歴史の教訓から、市民は立憲主義で政府による自由全般の侵害を防いだのと同樣、金本位制で政府によるマネーの水増しを牽制し、財産權の侵害を防いだのだ。金本位制は「野蠻の遺物」と揶揄されることもあるが、とんでもない勘違ひだ。野蠻なのは政府であつて、金本位制とはその野蠻な力から文明を守るための叡智と言ふべきだ。

財産權を守るといふと消極的に聞こえるが、資本主義の發展にとつて財産權の確立は大きな鍵となる。事實、各國が金本位制を相次いで採用した19世紀後半、經濟は急速に發展する。國家の枠を超えて通用する金の特長を背景に、貿易が活溌となり、人々の生活水準は大きく向上した。

さて、ここから『日本經濟のウソ』の議論を具體的に檢討しよう。高橋氏は、各國が金本位制に「固執」したのは、各國の政策擔當者が「金本位制=經濟の繁榮」といふ幻想をもつてゐたからだと説明する(p.108)。要するに昔の政治家や官僚はアホだつたから、經濟環境の變化もわきまへず、過去の榮光をもたらしてくれた制度を棄てきれなかつたといふわけだ。だがすでに説明した通り、そんな單純な話ではない。

昔の政治家や官僚は、現在の同じ職業の連中に比べ、市民の財産權を尊重する意識を多少強く持つてゐた。いや、持たされてゐたと言ふべきだらう。金本位制を抛棄するといふのは、金との交換を前提に貨幣を保有してきた市民との取り決めを破るといふことで、今で言へば、電機メーカーが派遣從業員の給與を現金で拂ふと契約してゐたのに、業績が惡くなつたから乾電池で拂ふと言ひ出すやうなものだ。そんなことを簡單に言ひ出せるはずはないし、言はれた方もたまらないだらう。金本位制の維持を非難するのは、あへて嚴しい言ひ方をすれば、經濟危機になつたら最低限の人權などどうでもよいと言つてゐるに等しい。「最大多數の最大幸福」しか念頭にない經濟學が陷りがちな、個人の法的權利を無視した發想と言つてもよい。

高橋氏は「金融当局が金本位制を信仰し、世界中の崩壊寸前の需要や続発していた銀行パニックを防ぐために必要だった拡張政策をためらった」(p.98)と書いてゐる。銀行パニックについてはすでに指摘した。金融緩和が銀行の杜撰な融資を許し、經營危機の素地を作つたのだから、さらなる金融緩和はせいぜいその場しのぎにしかならず、事態を惡化させるばかりだ。

「崩壊寸前の需要」を金融緩和で刺戟するといふのは、ケインジアンの有效需要論が前提となつてをり、こんな陳腐な經濟學を高橋氏が振り囘すのは殘念だが、今なほ學會を支配する思想だから仕方ない。カネをばらまいて人々に消費させても、目先の景氣を盛り上げる效果くらゐはあるかもしれないが、持續的な成長には結びつかない。經濟の長期的發展に必要なのは目先の消費でなく、貯蓄とそれを原資とした投資だからだ。

ケインズ思想に毒された人々はかう反論することだらう。「經濟危機の最中に悠長に長期の話などせず、とにかく目先のことだけ考へろ。人間なんてどうせ長期的には皆死んぢまふんだぞ」。目先の選舉のことしか頭にない政治家にはうれしい思想だ。しかしさうやつて目先のことばかり考へてやつてきた大衆民主主義の結果が、現在の世界的な財政問題ではないか。目先のことだけ考へてゐれば濟むのなら、財政問題など大して氣にする必要はない。だが實際には、市場は將來を豫想して動くから、長期金利の急上昇(國債價格の急落)といつた形で、長期の問題はいつでも切迫した短期の問題となつて我々に襲ひかかるのだ。

高橋氏はバーナンキの『大恐慌論文集』に基づき、金本位制から早く離脱した國ほど、デフレ脱却も生産活動の恢復も早かつたと論じてゐる(p.104〜)。これも近視眼的な主張だ。調査對象が1929年から1936年までのわづか8年しかない。たとへばアメリカの場合、ルーズヴェルトが1933年に金本位制を停止し、カネがぢやぶぢやぶになつた效果で景氣は一時上向くが、1938年には嚴しい不況に逆戻りしてゐる。だが本書に掲げられた1936年までのグラフからはそのことはわからない。不況を脱出できないのが金本位制のせゐなら、なぜ金本位制をやめた後、再び不況に陷つてしまふのか。さらに言へば、アメリカは戰後、金本位制に復歸し、1971年のニクソン・ショックで再び離脱するまで維持するが、その間、經濟運營に支障を來すどころか、順調な發展を遂げてゐる。金本位制を不況の犯人扱ひするのはこの點でもをかしいのではないか。

金本位制離脱の短期的な效果についても疑問な點がある。第一次大戰後、金本位制に復歸しなかつた第1グループのスペインについて「大恐慌の影響をほとんど受けませんでした」と高橋氏は(バーナンキに基づいて)あたかもその英斷を讃へるかのやうに書いてゐる。だがそもそも第一次大戰後のスペインは内政が不安定で經濟も混亂してをり、黄金の20年代を謳歌したアメリカなどに比べ落ち込みが小さかつたといつてもあまり意味がない。

それはひとまづ脇に置くとしても、さらに重大なのは、スペインは當時、世界で最も金利の高い國の一つだつたといふことだ。投資實務家のウィリアム・ベーカーが今年出版した Endless Money: The Moral Hazards of Socialism(『際限なきマネー 社會主義のモラルハザード』)によると、1930〜1939年の公定歩合は緩やかに下がつたとはいへ平均5.4%で、イギリスやアメリカの倍以上だった(p.96)。政府が自由に金融を緩和できないことが金本位制の缺陷として非難されてゐるのに、世界一金利の高い國の經濟が一番早く立ち直つたといふのは、辻褄が合はないのではないか。

Endless Money: The Moral Hazards of Socialism

Endless Money: The Moral Hazards of Socialism

金本位制離脱と經濟恢復の關係については、アイケングリーンとサックスによる有名な論文がある。ここでアイケングリーンらは歐米10カ國を對象に1929年から1935年までの爲替相場と工業生産高の關係を分析し、金本位制を離脱し爲替相場を大きく切り下げた國ほど、生産の落ち込みが小さいか増加してゐると主張した。だが上記のベーカーの本によると、爲替相場の切り下げによつて生産高の變化を説明できる部分は統計學的に全體の56%にとどまり、殘り44%は説明がつかないといふ。たとへば爲替相場を切り下げなかつたドイツの生産高はこの期間、同水準を保つてゐる(同書 p.100〜101)。ベーカーは、大幅な通貨切り下げを實施した國より、むしろ金準備率を大きく増やしも減らしもせず、安定した貨幣政策を維持した國の方が工業生産高は堅調だつたと指摘してゐる。金本位制停止など極端な行動は貿易相手國に不信感をもたらすから、經濟活動にマイナスに働いても不思議ではない。

高橋氏をはじめとするリフレ派のエコノミストは「長期デフレといふ非常時に市場は十分に機能しない。中央銀行はあらゆる手段を講じてマネーを供給せよ」と主張する。その善意を疑ふつもりはない。私自身、かつて同じやうに考へてゐた。だがミーゼスやハイエクが喝破した通り、たとへFedや日銀の幹部がいかに優秀でも、聰明で博學な高橋氏がかりに日銀總裁になつても、適切な通貨量や物價水準を知ることはできない。「見せかけの智識」に基づいて人爲的にマネーの量を操作する「金融政策」は今すぐやめ、金融市場を自由に機能させるべきだ。「非常時」はもちろん、いついかなる時も、より賢明な道筋を教へてくれるのは自由な市場だ。政府ではない。(終)

Libertarianism Japan Projectへの寄稿を一部修正)

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