國家、このあやふやなるもの――『国マニア』

私たちは普段、國家を非常に鞏固な存在と考へてゐる。國家ほど確かなものはないと信じて生きてゐる。だがじつのところ、國家ほどあやふやでいい加減なものはない。吉田一郎『国マニア』(ちくま文庫、2010年)は、國家のさうしたあやふやさ、よく言へば融通無碍な側面に氣づかせてくれる好著だ。

国マニア 世界の珍国、奇妙な地域へ! (ちくま文庫)

国マニア 世界の珍国、奇妙な地域へ! (ちくま文庫)

たとへば一般に國家が成立するための三要素は「領土、國民、主權」とされ、領土を持たない國家などといふものを私たちは通常想像することができない。ところがあるのだ。マルタ騎士團は領土がないのに世界の百四カ國と外交關係を結んでゐる。ローマに本據地があるが、ここはイタリアから借りた土地で、自前の領土ではない。

領土と言へば、普通は隣接する土地について權利を主張するものだ。ところがシベリアにある小國トゥバ共和國に對しては、遠く離れた臺灣が領有權を主張してゐる。臺灣政府(中華民國)は1949年に共産黨との内戰に敗れて臺灣にゐるものの、公式には現在でもシナ大陸は中華民國の領土だといふ立場であり、しかもその大陸の領土といふのは「辛亥革命清朝から受け継いだ当時の範囲だから、モンゴルの独立は認めていないし、トゥバも中華民国の一部ということになっている」からだ。時代錯誤と言つては臺灣に失禮だが、古い歴史をもつ國ならではの、なんとも雄大な話ではないか。

一方、きはめて淺い歴史ながら、劣らず面白いのはイギリス沖合の公海上にあるシーランド公國だ。もともと第二次大戰中にイギリス軍が作つた人工島の海上要塞だつたが、1967年に元英軍少尉のパティ・ロイ・ベーツが占據して獨立を宣言。ロイ・ベーツ公を名乘つてカジノ建設などに乘り出したベーツは、一時ドイツ人首相のクーデターで追放されたが、自らヘリコプターで急襲し叛亂を鎭壓。首相はドイツに逃れてシーランド公國の「亡命政府」を樹立し、正統政權を主張するといふ、スケールが大きいんだか小さいんだか、よくわからない状況になつてゐるらしい。ちなみに人口は四人。今のところ同國を承認した國はないといふ。

他にも興味深い話題が盛りだくさんで、紹介してゐるときりがない。そこで、この本が解決のヒントを與へてくれさうな日本の政治問題について二例だけ觸れておかう。まづ、駐ロシア大使の更迭であらためて話題となつてゐる北方領土だ。

著者の吉田一郎氏は香港でジャーナリストとして働いた經驗があるだけに、本書の香港特別行政區の項はとくに讀み應へがある。その中で、香港の一國二制度の智慧に學びつつ「日本もロシアに北方領土の返還を本気で要求するのなら、返還後の統治形態やロシア系住民の扱いについて、具体的なビジョンを示す必要がある」として、次のやうな提案をしてゐる。

  1. 北方領土一国二制度を導入し、「北方領土特別自治県」に高度な自治権を与える
  2. ロシア系住民の永住権や土地所有権を認める
  3. 日本語とロシア語を公用語とし、教育言語は日本語とロシア語の選択制とする
  4. 日本国憲法に抵触しない限りにおいて、現行のロシアの法律・条令を引き続き適用する
  5. 北方領土の議会は独自の立法権を有し、ロシア系住民の議席枠を設ける
  6. 北方領土は独自の入国審査を行い、日本人の移住はビザを必要とする
  7. 北方領土の公務員、警官は島民によって構成される
  8. ロシアの医師免許、弁護士や会計士の資格、教員免許、運転免許などを認める

かうした「具体的な提案がないと、いつまで経っても現実的な交渉はできないはずだ」と吉田氏は述べる。その通りだらう。現在「大宮の自治と獨立」を掲げてさいたま市議を務める著者らしく、住民の自治を尊重し、實務に配慮した提案内容にも基本的に賛同できる。

もう一つは沖繩だ。これは吉田氏が述べてゐるわけでなく、私が本書で學んだ智識から空想したものだ。周知のやうに、宏大な米軍基地を抱へる沖繩の人々は、米軍機の墜落事故や米軍人などによる犯罪をはじめ、さまざまな負擔に長年苦しんでゐる。そこで沖繩が日本から獨立し、米軍に撤退を申し渡すシナリオを考へてみる。アメリカ國内でも「世界の警察官」を自稱して國外に多數の軍事施設を配備することに批判が高まつてをり、あながち夢物語とは限らないだらう。

マルタ共和國はかつてイギリス地中海艦隊の根據地で、經濟の90%を英軍基地に依存してゐた。獨立後、英軍が撤退して經濟は一時ピンチに陷るが、觀光地として立ち直つた。今では年間百二十萬人の觀光客、三十四萬人のクルーザー乘客が訪れる。沖繩からかりに米軍が撤退しても、觀光を柱に、基地に頼らずやつていける見込みは十分ある。

觀光客が今以上に大舉して訪れることで、傳統文化の破壞を心配する向きもあるだらう。さうした懸念には、モルディブ共和國のやり方が參考になる。モルディブGDPの三分の一を觀光に頼る國だが、リゾート用として開放してゐるのは約九十の無人島のみ。「住民は敬虔なイスラム教徒で、観光客が持ち込むアルコールや派手な水着姿など異文化によって毒されることを防ぐために、政府の方針として観光客を『隔離』しているのだ」

沖繩が日本から獨立するとなると、政治的な軋轢は相當大きくなるだらう。ならば無理に完全獨立する必要はない。基地を置かないことを條件に、日本の「自由聯合國家」になればよい。自由聯合國家とは外交や防衞などの權限を他國に委ねた國のことで、パラオマーシャル諸島ミクロネシア聯邦はアメリカと、クック諸島ニウエニュージーランドと自由聯合を結んでゐる。クック諸島ではニュージーランド・ドルが使はれてゐるが、獨自の硬貨もあり、なんとハローキティ金貨と銀貨を發行してゐる。沖繩も獨自のアムロ金貨ガッキー銀貨などを發行すれば、大量に刷りまくられる日本圓の紙幣より値打ちが出るに違ひない。

荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、事實は小説より奇なり、世界にはかうした國家群は現實に存在する。日本人はもつと物事を大膽に考へてよいはずだ。『国マニア』は「普通の國」に慣れきつた硬直的な思考を柔らかくしてくれる。

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