『原爆投下決断の内幕』

ガー・アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕――悲劇のヒロシマナガサキ(上下、鈴木俊彦他譯、ほるぷ出版、1995年)

原爆投下決断の内幕〈上〉―悲劇のヒロシマナガサキ

原爆投下決断の内幕〈上〉―悲劇のヒロシマナガサキ

こうの史代のマンガ「夕凪の街」のヒロイン、皆実は廣島で被爆し、十年後、原爆症に苦しみながら死ぬ。その間際、かう考へる。

嬉しい? 十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て「やった! またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?

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まさにこれは殺人だつた。國際法では、空襲の對象は軍事目標に限らなければならない、兵士でない一般市民を攻撃してはならないなどの「戰爭のルール」が取り決められてゐる。

私は以前、戰爭とは所詮殺し合ひなのだから、勝つためにはさうしたルールを破るのもやむをえないし、極端に言へば、戰爭にルールなど無意味ではないかとさへ考へてゐた。だが今は考へを改めた。もし戰爭をせざるをえないのなら、ルールは守られなければならない。さう考へるのは私のやうな戰爭を知らない呑氣な日本人だけではない。原爆を落とした當時の米軍指導者たちも、戰爭のルールをたいさう氣にかけてゐた。

廣島・長崎への原爆投下について米國市民の間では、戰爭終結を早めて日本本土上陸作戰を避け、米軍兵士五十萬人の生命を救ふために決斷されたとする説が今でも廣く流布してゐるが、近年の歴史研究は、さうした一般的な見方に修正を迫つてゐる。米國の歴史家、アルペロビッツが著した『原爆投下決断の内幕』は代表的な研究成果のひとつだが、「原爆投下は本當に必要だつたのか」といふ本筋については詳しく書く餘裕がないし、ウェブ上の情報も多いので、割愛する。それよりも、米軍指導者の多くが、原爆投下は軍事的に不必要なだけでなく、倫理的にも許されないと考へてゐたことを紹介したい。

たとへばウィリアム・レイヒ海軍大將は戰後、かう語つたといふ。

私の意見では、広島と長崎に対してこの残忍な兵器を使用したことは対日戦争で何の重要な助けにもならなかった。日本はすでに打ちのめされており、降伏寸前だった。……あれを最初に使うことによって、われわれは暗黒時代の野蛮人並みの倫理基準を選んだことになると感じた。あのように戦争を遂行するようには教えられなかったし、女、子供を殺すようでは戦争に勝利したとは言えない。(上卷10頁)

また聯合軍最高司令官で後に米國大統領となつたドワイト・アイゼンハワーは、原爆の使用計劃をヘンリー・スティムソン陸軍長官から知らされたときのことを想起して、かう述べてゐる。

彼が私の意見を求めたので、私は二つの理由で反対だと述べた。第一に、日本は降伏しようとしており、あの恐ろしいもので攻撃する必要はなかった。第二に、私は我が国がそのような兵器を使う最初の国になるのを見たくなかった。(上卷515頁)

レイヒ、アイゼンハワーのいづれも、軍事的理由からだけでなく、倫理的理由から原爆投下に反對してゐることに注意してほしい。

驚くべきことに、太平洋司令官だつたダグラス・マッカーサー元帥は原爆の存在について政府から投下の直前まで知らされてゐなかつたといふ。1985年、ニクソン元大統領はマッカーサーと話したときのことをかう振り返つてゐる。

彼は、原爆が爆発させられたことを悲劇だと考えていた。マッカーサー原子力兵器にも通常兵器と同じ制限が適用されるべきだと信じており、また、軍はいかなるときも非戦闘員への被害を限定することを旨とすべきだと信じていた……言うまでもなく、マッカーサーは軍人だった。武力を行使するのは軍事目標に対してだけと信じており、だから、例の核兵器のことではがっかりしていた。(上卷510頁)

アルペロビッツは「第二次大戦当時の軍人は、少なくとも指導的な立場の軍人の一部は、すぐれて倫理的な意識が高かった」(下卷325頁)と書いてゐる。にもかかはらず、なぜ原爆は落とされたのか。軍人と異なり、軍人に命令を下す政治家はそのやうな嚴しい倫理觀をもつてゐなかつたからだとアルペロビッツはみてゐる。とくに決定的役割を果たしたハリー・トルーマン大統領とジェームズ・バーンズ國務長官についてかう書く。

この二人の発想や構想は、善かれ悪しかれ私たち一般人と同じ精神風土や倫理観、道徳観から導かれていた。もっと厳しい精神風土があれば、彼らの判断も違っていたかもしれないのだが。(下卷326頁)

高い倫理觀をもつ軍人たちも、つねに信念どほりの戰鬪をしたわけではなかつたかもしれないし、結局のところ原爆投下を沮止したわけでもない。東京大空襲など對日戰略爆撃を立案したカーチス・ルメイのやうに、民間人攻撃をためらはなかつた者もゐる。だがもし私たちが「女、子供を殺す」ことをおぞましく思ふのなら、彼らの最善の部分に學ぶことは無駄でないはずだ。米國の軍人だけではない。米軍の空襲にたいし「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」と抗議した岡田資陸軍中將のやうな日本軍人もゐる。

かつてタブーだつた核武裝論も最近では論壇で堂々と議論され、核廢絶論を「平和ボケ」と冷笑する向きさへある。だが傳統的な戰爭のルールに從ふ限り、核兵器は使用してはならない。その性格上、攻撃目標を絞ることができず、必然的に一般市民を無差別に殺傷するからだ。核廢絶論は正しい。それは鎭魂にふさはしい理想だと思ふ。

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