『日本人として読んでおきたい保守の名著』

潮匡人『日本人として読んでおきたい保守の名著』PHP新書、2011年)

日本人として読んでおきたい保守の名著 (PHP新書 751)

カバー見返しの内容紹介にかうある。

「ネット保守」という言葉に代表されるように、若い世代で「保守」を自認する人が増えている。しかし、保守層にも日米・日中の外交関係から、TPP参加問題まで、意見が分かれることはしばしばである。では、そもそも保守とは何か?

そもそも保守とは何か? 興味深い問ひかけだ。ところがこの本には、その問ひかけへの納得ゆく囘答がない。それは著者自身、保守主義についての理解が混亂してゐるからだと思はれる。

著者潮氏は「まえがき」で、オークショットの言葉を借りて保守の定義を述べる。「保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを〔略〕好むことである」(3頁)。この定義に素直にしたがへば、「見知らぬ」規制緩和構造改革は保守の精神に反するだらうし、「試みられたことのない」郵政民營化やTPP(環太平洋戰略的經濟連携協定)參加も保守的とはいへないはずだ。

ところが潮氏は「保守の名著」の一册として、ハイエクの『隷属への道』を舉げてゐる。ハイエクといへば、經濟的自由を強く擁護し、規制緩和・民營化政策の理論的支柱となつたことで知られる。これでは保守と呼べないのではないか。事實、潮氏が言及してゐる通り、ハイエク自身「なぜわたくしは保守主義者でないのか」といふ論文を書いてゐる。

隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

潮氏は、ハイエクは非保守だとの見方があることを承知したうへで、それでも保守とみなす研究者は自分以外にもゐるといふ。それは事實だが、だからといつてその見解が正しいとは限らない。たとへば潮氏が引用してゐる西部邁の文章(215頁)はかうだ。

市場が大いなる不確実性の発生源になっている(中略)たぶん、そのことを承知の上で、彼〔ハイエク〕は市場機構を礼賛しつづけたのではあろう。反ソ、反ナチの思想的闘士として彼はそうしなければならなかった。その点を省いてみると、彼は鮮烈な保守主義者としての風貌を表わしてくる〔。〕

お粗末きはまる。先日も書いたやうに、金融危機などで經濟の不確實性が高まるのは市場のせゐではなく、政府の介入が原因だ。それはハイエク自身が指摘してゐる。市場が不確實性の發生源などと思ふはずはないし、ましてやそれを「承知の上」で「市場礼賛」をつづけたとは、ハイエクの知的誠實に疑ひを抱かせかねない言ひがかりだ。

「市場礼賛」の度がすぎた點を「省いてみると」、ハイエクは「鮮烈な保守主義者」であるといふのも無茶な論理だ。ハイエクの眞骨頂は市場の強い擁護(西部氏に言はせれば「礼賛」)にこそあり、だからこそ自ら「保守主義者でない」と宣言したのだ。その肝腎の部分を「省いて」保守主義者と判定してよいはずがない。まるで「顏がまづい點を除けば美人」といふやうなものではないか。(註1)

また潮氏は、ハイエクが「保守主義の父」エドマンド・バークを高く評價してゐたことを、「ハイエク=保守」の論據のひとつに舉げる(215−216頁)。しかしハイエクがバークを評價したのは、あくまでも自由主義的な側面についてだ。傳統主義の權化のやうに思はれてゐるバークだが、實際には「政府が市場に姿を現したとたん、市場の原理は損なはれる」("The moment that government appears at market, the principles of the market will be subverted.")と、まるで「市場原理主義者」のやうな發言も多く殘してゐる

やはりハイエク保守主義者として評價するのは無理がある。いや、ハイエクだけではない。本書が取り上げてゐる他の「保守」思想家、たとへばトクヴィルも「『他に並ぶものなき』リベラル派」と呼ばれてゐたし、アーレントは本書の章題で「自由」を「愛し」たことが強調されてゐる。いつそ本書の題名は「保守の名著」でなく、「自由の名著」とすべきだつたのではないか。潮氏自身、かう書いてゐる。「正統的な保守思想が奉じるべきは〈自由〉であって、決して〈平等〉ではない」(230頁)

しかしもし「保守」と「自由」が對立したら、潮氏はどうするのか。これこそ郵政民營化やTPP參加をどう評價すべきか惱む「保守層」讀者が一番知りたい點だらう。しかし期待は肩透かしに終はる。潮氏はハイエクの「私は、確信的な自由貿易論者です」といふ言葉を引いた後、かう附け加へるだけだ。

この論点では、規制緩和構造改革、「市場原理」に批判的な日本の「保守」陣営の多くに疑問符がつく。(219頁)

これではとうてい、あたかもエセ保守であるかのやうにカギカッコつきで呼ばれた、市場原理反對の「保守」陣營は納得しないだらう。ハイエクを無理やり保守の巨人にまつりあげておいて、そのハイエクの言葉を根據に相手を保守でないと難じるのはをかしい。徹底した自由主義者リバタリアン)である私は、市場原理を尊重する潮氏を應援したいのだが、この理論武裝では反對派に太刀打ちできない。

はつきりさせよう。保守主義自由主義は結果として主張が重なる場合もある(例へば反社會主義)けれども、決定的に異なる點がある。それは前者が市場の力、つまり個人の自由な經濟活動による社會的變化を拒み、後者は受け容れることだ。だから決定的な場面では市場原理に反對するのが首尾一貫した保守主義者であり、賛成するのが自由主義者だ。(註2)

潮氏は自由主義にシンパシーを感じつつ、同時に保守主義者を演じるアクロバットを試みたが、それは原理的に無理がある。保守か、自由か。このぎりぎりの問ひかけに答へる本を、潮氏にはもう一度書いてもらひたい。

(註1)こんな論法が通るなら、たとへばマルクスについて「社会主義を礼賛した点を省いてみると、鮮烈な保守主義者としての風貌を表わしてくる」といふことだつてできる。手段はまづかつたかもしれないが、「市場礼賛」に異を唱へた精神は、保守的と呼ぶことができるからだ。實際、元外務省主任分析官の佐藤優のやうに「今こそ保守的な立場からマルクスをきちんと読むことが大事」(『国家と神とマルクス』49頁)などと述べる論者もゐる。これはほとんど「マルクス保守主義者」といふのと一緒だらう。

(註2)もちろんここでいふ「自由主義者」とは言葉本來の意味であつて、現代の「リベラル」、つまり社會民主主義者のことではない。

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