『アメリカの大恐慌』を讀む(1)明確な景気循環理論 The Positive Theory of the Cycle
大恐慌についての通説を疑ひ、眞の原因を探る試みの一環として、今後しばらく、オーストリア學派の經濟學者・歴史家で、リバタリアンの代表的論客でもあつたマレー・ロスバード(Murray N. Rothbard, 1926-1995年)の著書『アメリカの大恐慌』(America's Great Depression, 初版1963年、第5版2000年。未邦譯)の内容を紹介してゆく。
原著の構成に沿つて進めるが、逐一飜譯してその都度論評を加へる改まつた形式でなく、筆者(木村)がロスバードの主張を噛み碎いて説明しつつ、とくに重要と思はれる箇所を引用で適宜織り込むといふ、自由なスタイルをとりたい。脱線する可能性もあり、好き勝手なことを話してゐる漫談のやうに見えるかもしれないが、學術的著作ではないので、御勘辨願ひたい。
なほ原著はLudwig von Mises Institute のウェブサイトでPDF、HTML、epubなどの形式で無料で入手できるほか、Amazonでもペーパーバック版、Kindle版が贖入できる。
どうでもよい話だが、ロスバードのファーストネームは邦譯書で「マリー」と表記されることもあるが、女性と間違はれさうなので「マレー」とする。
第1部 景氣循環理論(Business Cycle Theory)
ロスバードは大恐慌に關するこの著作を、まづ景氣理論についての解説から説き起こす。近代資本主義經濟においては好景氣(好況)と不景氣(不況)が交互に繰り返し起こつてをり、これを景氣循環(business cycle)と呼ぶ。大恐慌とそれに先立つ1920年代の空前の好景氣も、かうした景氣循環の一つだ。大恐慌が起こつた理由を知るには、景氣循環が起こる理由をまづ知らなければならない。
明確な景氣循環理論(The Positive Theory of The Cycle)
景氣と言へば、普通の人にとつて最も關心のある經濟事象の一つだらう。しかし意外なことに、現在の一般的な經濟學の教科書を開いても、好景氣と不景氣がなぜ起こるかについて明確な理由は載つてゐない。
實を言ふと、大恐慌以前の1920年代頃までは、歐米の經濟學界で最有力とみなされた景氣循環理論が存在した。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(Ludwig von Mises, 1881-1973年)が著書『貨幣と信用の理論』(1912年)で明らかにした理論だ。その内容はこれも後ほど詳しく説明するが、一言で言へば、中央銀行の人爲的な金融緩和を背景に銀行が貸出を過大に増やす結果、持續性のない好景氣が起こり、その後の不景氣を招くといふものだ。
つまり、よく言はれるやうに市場經濟が不安定だから好景氣と不景氣を繰り返すのでなく、經濟を安定させるために行はれてゐるはずの「金融政策」こそが經濟を不安定にしてゐる元兇といふわけだ。金融政策が重要な經濟政策の一つだと教へられてきた現代の普通の人々にとつて、にはかに信じがたい主張だらう。
だがミーゼスの景氣循環論はかつて專門家の間で認められた理論であり、學問的根據のない空想などではない。その一つの證左となるのは、ミーゼスの弟子で、1929年に出版した『貨幣理論と景氣循環』などを通じ師の景氣理論を發展させたフリードリヒ・ハイエク(Friedrich August von Hayek, 1899-1992年)が1974年、ノーベル經濟學賞を受賞したことだ。ハイエクは一般にはベストセラー『隸屬への道』などでの社會主義批判で知られるが、ノーベル賞受賞の理由は社會主義批判でなく、一見地味な「貨幣理論および經濟變動理論に關する先驅的業績」だつた。だがハイエクがノーベル賞を受けた頃には、ミーゼスの景氣理論はほとんど忘れられてゐた。
ミーゼスの景氣理論は論理的な誤りを指摘され、否定されたのではない。大恐慌をきつかけに卷き起こつた「ケインズ革命」の陰で不當に無視されたにすぎない。各國が「大きな政府」を目指す中で、市場經濟に對する政府の介入を正當化するケインズの理論は政治家や官僚にとつて魅力的だつた半面、介入を否定するミーゼスの理論は都合が惡かつた。ハイエクがノーベル賞を受け、ミーゼス理論が久しぶりに脚光を浴びた背景には、70年代になつてスタグフレーションの進行でケインズ理論の問題點が明らかになつたことがあると考へられる。
自身もミーゼスの弟子であるロスバードは「ミーゼスの(景氣循環)理論は一般的な經濟理論から導かれる唯一の理論であり、したがつて(景氣循環を)正しく説明し得る唯一の理論である」と強調してゐる。この理論に基づき、ロスバードは大恐慌の眞の原因を明らかにしてゆく。
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