『アメリカの大恐慌』を讀む(12)流動性の罠

流動性の罠(The liquidity "trap")

ケインズ派は、「流動性選好」(liquidy preference)、つまり貨幣への需要が非常に大きくなることにより、利子率がそれ以上下がらない状態があると主張する。かうなると金融政策では投資を十分に刺戟できず、經濟を不況から脱出させることができなくなるといふ。この状態をケインズ派は、經濟が「流動性の罠」(liquidity trap)に陷つたと呼ぶ。

この主張は、利子率が時間選好でなく、流動性選好によつて決まるとの考へ方を前提としてゐる。また貯蓄と投資の間にはほとんど關係がないとみなしてゐる。

America's Great Depression

America's Great Depression

だが「貯蓄と投資が利子率に基づいて決まることは明らか」とロスバードは強調する。それどころか「貯蓄、投資、利子率はいづれも市場における個人の時間選好によつて同時に決定される。流動性選好とは一切無關係」なのだ。

ケインズ派は、不況期に現金への「投機的需要」が高まると、利子率を上昇させると主張する。だがロスバードによると、必ずしもさうなる理由はない。人々が手持ちの現金を増やす際、方法は三つしかない。消費を減らすか、投資を減らすか、兩方を組み合はせるかだ。時間選好に變化がなければ、選擇肢は三番目で、時間選好率、つまり消費を投資よりどれだけ好むかの度合ひにしたがつて、消費と投資をそれぞれ減らすだらう。

このやうに利子率は時間選好のみに依存し、「流動性選好」なるものとはかかはりがない。それどころか、もし現金を増やすためにおもに消費を減らしたとしたら、現金需要が高まつたにもかかはらず、利子率は下がるだらう。なぜなら時間選好が弱まつたからだ。

ケインズ派の言ふ「流動性の罠」とは次のやうな現象だ。人が貨幣(現金)を手元に置きたいと考へる理由は大きく二つある。經濟的取引を行ふため(取引的動機)と金融資産を贖入するため(投機的動機)だ。このうち投機的動機による需要は極端に大きくなることがある。金融資産を債劵で代表させて考へると、利子率が非常に低い水準にあるとき、債劵の價格はその裏返しで非常に高い水準にある。このやうに高値にある債劵を贖入すると、將來値下がりで大きな損失を被る恐れがあるので、債劵をだれも買はうとせず、人々は資産を現金の形で手元に置かうとする。すると貨幣の需要が無限に大きくなるといふ。

かうした状況で中央銀行が金融緩和政策で貨幣供給量を増やしても、増えた貨幣はそのまま現金の形で人々によつて保有されるので、利子率にほとんど影響を及ぼさず、金融政策の效果が現れなくなる。このやうな状況をケインズは「流動性の罠」と呼んだ。この状況では金融政策が效かないので、景氣を刺戟するには財政政策が必要だとケインズ派は主張する。

しかしかうしたケインズ派の見方は誤つてゐるとロスバードは言ふ。利子率を債劵など貸附契約の價格としてしか考へないのは表面的すぎる。すでに述べたやうに、利子率の最重要な部分は、人々の時間選好で決まる自然利子率だ。

では「流動性の罠」の話に出てくる、人々が利子率の上昇を豫想し、現金を保有したままになる状況とは、何を意味するのだらうか。これは金融の世界の背後に隱れてゐる實物經濟の動きを考へるとわかりやすい。

自然利子率は理論的には企業の資本收益率と一致することが知られてゐる。人々が利子率の上昇を豫想するといふことは、資本收益率の上昇を豫想してゐるといふことだ。物價が全般に下落する不況期の場合、企業が販賣する商品の値段より、コストとなる賃金や原材料、製造設備などの方が早く値下がりすれば、資本收益率は上昇する。

雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉 (岩波文庫)

企業家であれば、賃金や生産設備などができるだけ値下がりしてから人を雇ひ、設備投資した方が高い資本收益率をあげられる。だから値下がりするまで雇傭や投資を手控へるだらう。このやうに企業家が投資を手控へ、現金を手持ちにして樣子を見る状態が、金融市場では「債劵などの投資におカネが向かはず、現金に滯留する」状態として現れるわけだ。

しかし上述のやうな企業家の「樣子見」は昔からよくある一種の投機にすぎず、別に珍しいことではない。わざわざ「流動性の罠」などとおどろおどろしい名前で呼び、惡者扱ひする必要などありはしない。それどころか企業家が雇傭や投資を手控へると、賃金や設備價格の下落を速め、價格調整を加速する。さうなれば經濟が立ち直るのも早くなる。現金を手元にため込む愼重な企業家は、不況を長引かせる元兇であるどころか、經濟の恢復を早めてくれる救世主なのだ。

そもそも「現金への需要は決して『無限』にはならない」とロスバードは指摘する。どんな吝嗇家でも、生きてゆく以上、消費を完全にやめるわけにはいかないからだ。物價が將來安くなるのが確實だと豫想しても、ある程度の消費は今行はなければならない。

消費がなくならないならば、一方でその商品やサービスを生産しなければならない。したがつて人々が現金をため込んでも、仕事がなくなることはなく、賃金が十分に下がれば完全雇傭が實現される。不況期に必要なのは、政府が最低賃金規制などによつて市場に介入することでも、財政政策によつて企業家の活動の場を狭めることでもない。市場での價格形成と企業活動を最大限自由にしておくことなのだ。

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