「騙されるな!」に騙されるな

高橋洋一の新刊『「借金1000兆円」に騙されるな!――暴落しない国債、不要な増税』(小学館101新書、2012年)で有益なのは、デフレや國債にまつはる謬論を批判する最初の部分だ。たとへば藻谷浩介のこととみられるが、人口減少がデフレの原因だとする主張に對し、韓國のやうに「人口が減少しているのに物価が上昇している国などいくらでもある」(9頁)と反論し、インフレとデフレの原因はお金の量の増減であると正しく指摘している。
「借金1000兆円」に騙されるな! (小学館101新書)
また中野剛志三橋貴明のことと思はれるが、政府の借金(國債)が自國通貨であれば國内でいくらでも紙幣を印刷できるから返せないことはなく、財政は破綻しないといふ主張を「全くの俗説」(30頁)と批判する。借金を紙幣の印刷で補填しようとすればインフレを招き、「実際には借りたときよりも購買力の小さな通貨で返済することになる」(37頁)から、實質破綻とみなすべきである。これも正しい指摘だ。

しかし他の部分はあまり有益とは言へない。持論であるリフレ政策については、以前批判したことがあるので、ここでは手短に書く。經濟學者のミーゼスやハイエクが指摘したやうに、紙幣を刷つて一時的なバブル景氣を起こすことはできても、繁榮は持續せず、政府および政府と親しい一部の業者や人々をより多く潤すだけで、社會全體では物的・人的資源を浪費してしまふ。また高橋は増税に反對してをり、それには私も賛同するが、リフレ政策は人々がもつお金の價値を引き下げる「見えない増税」である。「見える増税」に反對しておいて、「見えない増税」を主張するのは筋が通らない。

今囘指摘しておきたいのは、書名にもある、日本政府が抱へる約1000兆圓の借金にかんすることだ。高橋は政府の貸借對照表(バランスシート)を掲げ、負債の合計はたしかに1000兆圓だが、資産の合計も650兆圓あるので「国の借金は、差額で見ると350兆円しかなく、GDP比では70%でしかない」(51頁)と述べる。負債の大小を判斷するには資産を差し引いたネット(正味)で見るべきであり、差し引く前のグロス(總量)で論じるのは不適切といふ。

しかし負債を正味の額で見たからといつて、日本の財政状況が深刻なことに變はりはない。政府の負債が1000兆圓、資産が650兆圓だとすれば、企業會計で言へば350兆圓の債務超過にあるといふことだ。債務超過は資産を全部賣り拂つても借金を返せない状態を意味し、民間企業なら銀行から新規の融資を止められてしまふほど深刻な財務状況だ。

もちろん政府は民間企業と違ひ、増税したり紙幣を刷つたりしてお金を調達できるから、資金繰りにすぐ窮することはない。しかし高橋は増税に反對してゐるわけだし、紙幣を刷ればこれも高橋自身が述べたやうに、インフレを招いて財政は實質破綻の恐れが強まる。しかも財務省の資料によれば、正味で見ても日本の負債殘高(純債務残高)は對GDP比で134.8%と、主要先進國中最惡である。それなのに借金が正味350兆圓「しか」ないなどと表現するのは、過度に樂觀的な印象を讀者にあたへようとの意圖を感じてしまふ。

さらに高橋は「資産650兆円のうち、400兆円以上は金融資産だ。金融資産とは、現金、預金、貸付金、有価証券、出資金などで、売るのも簡単だ」(52頁)と主張する。しかし政府の金融資産がさう簡單に賣れるとは思へない。

金額が最も多い貸附金(154兆圓)は多くが政府系金融機關や地方公共團體向けで、不良債權となつてゐるものもあるとみられるうへ、政治がからむので引き揚げるのは大きな困難がともなふ。有價證劵(91兆圓)は米國を中心とする外國債が多いと言はれ、これも政治的配慮や圓高を避ける都合上、好きなやうに處分できる保證はない。

また金融資産の部門別内譯を内閣府の統計(「一般政府の部門別資産・負債残高」)でみると、およそ4割を社會保障基金が占め、これは年金や保險の支拂ひに備へるものだから、このままでは借金返濟に囘せない。高橋は「資産の範囲をどう考えるか……などの細かい問題はある」と斷つてはゐるものの、資産の存在を過大にアピールしてゐるやうにしか見えない。

しかも繰り返しになるが、かりに資産をすべて處分できたとしても、なほ350兆圓の借金が殘るのである。これが民間企業なら「頑張つて稼いで返せよ」とはげましてやればよいが、政府が「稼ぐ」方法は國民の財産を課税やインフレで取り上げるしかないのだから、政府が頑張れば頑張るほど、政府と親しい一部の人々を除き、經濟は活力を失ひ疲弊してゆくことになる。

高橋が言ふやうに、財務省増税への地ならしのため悲觀的な見方を強調してゐるのかもしれない。しかしだからといつて、對抗して過度に樂觀的な見方を振りまいても仕方がない。必要なのは、財政危機でも反増税(もちろん「見えない増税」を含む)を貫くための理論武裝である。
(「『小さな政府』を語ろう」でも公開)